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久万町誌

8 笹ヶ峠合戦

 直之は兄直昌とは四歳の年少で隼人・上総介・右衛門太夫と称し、喜多郡菅田城主となり菅田直之(又は直行)とも呼ばれた。地蔵嶽城主宇都宮豊綱の聟となり、その死後地蔵嶽に住み、郡内の棟梁となったという。前述のごとく直之は囚人として兄直昌の監視下におかれたが、天正二年(一五七四)小田町で貝足五両分の地を与えられた。しかし彼はそれを不服として、ひそかに妻子を連れ元親を頼って土佐に逃れ、喜多郡の旧領に帰るよう画策をはじめた。天正二年八月に長宗我部元親が中に立って兄弟の和睦をはかり、両者は閏八月二五日、いよいよ予土国境の笹ヶ峠で会見する運びとなった。その日、元親は直之を伴って笹ヶ峠甫見江坂に、直昌はそれより五○町ばかり距った樋ヶ崎まで出向き、互いに使節の礼があって前進した。このとき土佐の伏兵二〇〇余人が前後から、ときの声をあげ発砲して現れた。不意をつかれた久万山勢はその死傷数知れず、直昌の弟東筑前守をはじめ、喜土、樋口、土居、林、安持、荒川、近沢等屈強の士七〇余人は乱戦の中で悉く討死を遂げた。しかし、直昌は名だたる知勇兼備の名将のこととて、大敵の囲みをものともせず、士卒を叱咤して奮戦し、遂に土佐勢を切り崩し、一族の尾首掃部、尾崎丹後守、日野九郎左衛門等と、逃げる敵を甫見江坂の東まで追撃し、勝どきをあげて帰軍した。この時、土佐方は長野兄弟寺町左近以下八〇余人が討死したという。こうして直昌は九死に一生を得たが、一族家臣の大半は討死し、再起し得ぬほどの大打撃を受けた。
 以上は、「予陽河野家譜」の記するところである。またこの地方に残る「大野家聞書」などには、更に芝居がかった表現で、この戦いをえがいており、面白くはあるが全くの作り話であることは、既に天明年間に上川村庄屋大野和五郎が手記に書いてあるので、ここでは省略する。