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久万町誌

2 久万文化

 久万を中心に栄えた縄文後期から晩期にかけては、まだ米作りは伝わっていなかった。しかし、道後平野へは、既にそのころ水田耕作を伴う弥生文化(約二三〇〇~一七〇〇年前)が、西の方から伝えられ始めたと思われる。そこでは、大量にできる米や、それから作られた酒が弥生式土器のかめやつぼに貯えられていたであろう。そして、三坂峠あたりで西の海を望んだ久万の縄文人は、下界にあこがれ、峰づたいに下ってきては、道後平野の人々と毛皮、果実、骨角器などの山の幸と交換に、海の幸やおいしい米の酒を、つぼごと家にもち帰ったことであろう。そして、その米は当時の久万では、技術上、作り得なかったとしても、新しいつぼやかめを、弥生様式を見習って、作り始めたのではなかろうか。三坂峠で発見されたつぼも、あるいは途中で、置き忘れたか、捨てられたものかもしれない。
 このように縄文時代も終わりのころになると、道後平野との行き来により、縄文土器が、久谷村の中野山や高浜の高山、和気の蓬来寺山などに落とされ、また瀬戸内海のみならず、芋坂の土器の文様が九州のものと、全く一致していたり、大分県の国東半鳥近くの姫島に産する黒耀石の矢じりと同じものが、芋坂から発掘されたりしている点から、かなり広範囲の交流があったと考えられる。
 このように、久万文化ともいうべき、縄文後期、晩期のころの久万地方には、多くの遺跡を残しており、久万山人の築き上げた、この原始文明は、現代に生きる久万町民の文化の源として、大切に保存し、かつ研究を進めていかなければならない。