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双海町誌

第二節 消防

一 概   要
 藩政時代から明治にかけては、当地方には特別に専門的な消防組織は存在しなかった。火事等が発生した際には、組頭などの村役が指揮に当たり、組中や集落中の者が消火に当たっていた。消火の方法も、現在からすると単純なもので、山火事は「火道を切る」ことで延焼を防ぎ、家の火事は鳶や玄翁による破壊作業が中心であった。
 明治の中ごろには、上流階級の家や商家などに「水遣鉄砲」と称する木製の手動噴水機が常備されたこともあったが、その性能からしても初期消火に役立つ程度であった。
 藩政時代以来、人災のなかでも火事が最も恐れられたため、常時最大の用心が施されてきた。放火をした者は極刑に処されたし、失火をした場合でも厳しい刑罰に処された。青年たちを中心とした「夜廻り」の制度が徹底され、火災の発生防止が至上命題とされていたのである。

(1) 消防組の発足
 警察の指導を受けて、上灘・下灘に初めて消防組が誕生したのは、明治の後年のことであった。しかしこの消防組は、実質的には家屋が密集した海岸集落を対象としたものでしかなかった。
 全町的な消防組が組織されたのは、一九二一(大正十)年ごろであった。上灘・下灘それぞれの消防組の中央には、大正の末から昭和の初期にかけて、金属製の手押し大型ポンプが配置された。また各集落にも、順次、同様の小型ポンプが設置されていった。
 これ以降、火事への対処法は、破壊を中心とした延焼を防止する方法から、水による消火方法へと変化するのである。しかし、依然として交通の不便な集落では初期消火はほとんど期待できなかったし、併せて新たに、防火用水をどのように計画整備していくかが課題となっていた。

(2) 戦時下の消防体制
 太平洋戦争時下になると、消防組は警防団に編成替えされ、火災に対する消火活動等の本来の業務に加えて、治安維持的な役割も併せ持つこととなった。
 警防団には、油性爆弾に対する砂袋等の消火設備や、灯下管制等の特殊業務が付加され、実質的に警察の指揮下に編入された。


二 消 防 団
 一九四五(昭和二十)年八月の終戦に伴って、各地方自治体内には警防団に代わる消防団が編成されていった。
 本町においても、一九五五(昭和三十)年に七分団からなる双海町消防団が結成された。消火機材も、一九五四(昭和二十九)年十一月に上灘町第一分団に動力ポンプが整備されたのをはじめとして、順次各分団に配備されていった。道路が整備されるとともに専用自動車による機動力も促進された。また、水による消火とともに、粉末消火器等の化学消防も重視されるようになった。
 このようにして現在の消防団は、近代化された消防力を保持するようになった。

消防団の活動状況
 消防団の使命は、災害発生時に速やかにしかも的確な行動をとり、住民の生命と財産を守ることにより、地域住民に信頼と安心を持たせることにある。
 双海町消防団は、団長の指揮・命令のもとに、分団長・班長・団員の統率力もよく、更に団員の技術力向上に努めている。
 消防団の年間の活動には主に次のようなものがある。
 ・消防団幹部会(班長以上の出席、年五回)
 ・機械器具点検(各分団では常時、分団長以上による巡回点検年一回)
 ・防火用水利の点検(常時)
 ・夜警 (毎年十二月二十六日~三十日)
 ・パレード(町内巡回十一月)
 ・防火防御訓練(全分団参加、年一回)
 ・消防出初式(三月第三土曜日)
 ・ポンプ操法・規律等の訓練(随時)
 ・伊予地区消防操法大会(隔年実施に参加)
 ・女性団員による独居老人宅の防火訪問等(随時)

(1) 双海町消防団
 なお、二〇〇三(平成十五)年四月一日現在の双海町消防団の消防機材は次のとおりである。

(2) 役場消防班
 一九六五(昭和四十)年ごろ、町外への通勤者が激増したため、昼間時の火災等に対処できる消防団員の実質的不足をみる状態となった。そこで一九六七(昭和四十二)年十二月、役場職員一七人(現二〇人)による消防班が結成された。役場消防班は、初期消火等で活躍している。
 なお本郷駅前地区には、同様の理由で婦人防火隊が組織された。

(3) 双海町纏会
 一九八四(昭和五十九)年四月、双海町発足以降に勇退した双海町消防団幹部(副団長以上)及び現職(副団長以上)などを会員とする、双海町纏会が結成された。この会の目的は、会員相互の親睦援助を図ること、消防事業の発展に努めること、会員の弔慰をすること、団員の育成並びに防火思想の普及徹底に関することなどである。
 同会の活動は、一九八四(昭和五十九)年四月一日から開始され、年一回の総会のほか、出初式への参加など、幅広い活動を行っている。二〇〇四(平成十六)年五月三日現在の会員数は二一人となっている。

三 広域消防体制
 昭和四十年代に入ると、地区の消防団だけでは消防力にも限界があるため、本格的な常設消防署の開設を要望する声がしだいに強まっていった。
 一九七一(昭和四十六)年六月八日、伊予市を中心とする松前・砥部・広田・中山・双海の各市町村は、消防常備化促進協議会を設立し、翌年の九月十三日、「伊予消防組合」を発足させた。伊予市に本部、双海町には出張所が置かれることとなった。
 開署式は、一九七三(昭和四十八)年三月三十日、伊予市立港南中学校校庭において挙行された。伊予消防組合は、一本部・一署・一分署・四出張所、六八人(双海七人)でスタートした。翌三十一日、双海出張所は元第一分団詰所において職員七人で消防業務を開始した。装備は、消防ポンプ自動車一台(元第一分団使用)、救急車一台、小型ポンプ一台であった。
 その後、職員体制の充実及び消防・救急設備等の充実を図り、近年、救急救命士による特定行為も一部運用するなどして、消防・救急・救助活動に励んでいる。伊予消防組合は一九八二〈昭和五十七〉年七月に、広域斎場に関する事務を含み伊豫消防等事務組合と名称変更して現在に至っている。
 なお、双海出張所の沿革は次のとおり。
伊予消防組合と双海出張所の沿革
 ・昭和四十七年二月十八日
消防組合設立準備委員会を設置
(構成)
一、組合設立準備委員会の組織
   会長 伊予市長、副会長 広田村長
   委員 市町村長及び市長村議会議長
   幹事 市町村総務課長(財政担当課長)
二、組合設立準備委員会事務局
 伊予市消防本部
 事務局長 伊予市総務課長
 事務局次長 伊予郡町村会事務局長
 ・昭和四十七年四月十日
消防組合第一回設立幹事会を開催
(構成)
 関係市町村総務課長
 事務局 伊予市消防本部
 組合規約の審議、消防機械年度別配備計画
 ・昭和四十七年九月十三日
伊予消防組合発足
 ・昭和四十八年三月三十日
伊予市立港南中学校で開署式
 ・昭和四十八年三月三十一日
双海出張所消防業務開始
消防ポンプ自動車一台 救急車一台 小型動力ポンプ一台
 ・昭和五十七年七月三十一日
組合の名称を変更
旧伊予消防組合
新伊豫消防等事務組合
 ・平成十年四月一日
携帯電話による一一九番通報の受信運用開始
 ・平成十二年一月一日
双海町防災行政無線を全世帯及び公共施設等に設置
 ・平成十二年八月一日


四 救急・救助活動
 常備消防の発足と同時に、救急隊員による救急業務が開始されることとなった。救助隊は、伊予市の本部に一九九三(平成五)年四月に正式に設置された。


五 防火活動
 災害発生時に円滑・迅速・的確な行動ができるよう、日ごろから消火技術の向上と知識の習得に努めるとともに、次のような活動を行っている。
・建築物、道路、危険物、水利などの状況調査
・各家庭を訪問し、防火チェック・火の元点検の呼びかけ
・学校等での避難訓練の指導
・地域住民を対象に消火訓練・講習会などの開催
・少年消防クラブの指導育成
・防火管理者への指導・検査・取締りなど

翠小学校少年消防クラブ
 一九八四(昭和五十九)年五月一日、翠小学校の四・五・六年生の男女児童は、将来火災予防に関心の深い町民になることを目標に、「翠小学校少年消防クラブ」を結成した。
 クラブの活動は、次のことを目的としている。
 ①火災予防の方法や消防の仕事を互いに研究する。
 ②火災予防を広く徹底させる。
 ③火災予防について必要なことを調べたり行ったりする。
 クラブへの加入は、原則として小学校が推薦した児童でなければならず、委員長一人・副委員長二人はクラブ員の互選によることとされた。指導員は、教師・消防職員・消防団員それぞれ数人が担当し、学校長・PTA会長・消防所長・消防団長が顧問を務め、双海ライオンズクラブも育成に尽力している。
 クラブは現在も、年に八回ほどの活動を行っている。
 なお、同クラブの表彰歴は次のとおり。
 ・双海町防火功労表彰(平成元年)
 ・自治体消防四五周年記念表彰
 ・平成七年度優良少年消防クラブ全国表彰(楯)(平成八年)
 ・平成十四年度特別優良少年消防クラブ全国表彰(表彰旗)


六 火   災
明治以降の大きな火災は次のとおりである。

一八七五(明治八)年五月
 大久保、山林一町五反歩(約一・四九ヘクタール)焼失。原因は失火。

一八七五(明治八)年十二月
 上灘字日ノ地に原因不明の火災が発生。山林二〇町歩余(約一九・八三ヘクタール)を焼失。消防従事中、同村井上岩次郎ほか五人が猛火に包まれ焼死。

一九〇九(明治四十二)年四月
 串に原因不明の火災が発生。山林三町六反余歩(約一子五七ヘクタール)を焼失。

一九三五(昭和十)年三月十五日
 十九時ごろ串字ヌタノモトの山林より出火し、折からの強風のため大久保付近の山林に延焼を起こした。郡内及び喜多郡からも消防組員が出動したが、消火活動ははかどらず、十六日七時、三〇九町三反四畝歩(約二九七・八五ヘクタール)を焼失して鎮火した。約一一万二〇〇〇円の損害。

一九四五(昭和二十)年四月十八日
 正午ごろ、高野川の山林より出火し、異常乾燥警報発令中の折から、更にやまじ風により火勢が増し、茅山・本尊山の稜線を越えて仲の宮まで延焼した。郡内十余町村の警防団員、住民など一000人以上が消火活動に携わった。しかし、藤岡菊次郎ほか六〇余人所有の山林一一四町五反五畝一八歩(約一一三・六〇ヘクタール)が焼失し、被害額は二三万八〇五〇円に及んだ。原因はたばこによる失火。

一九四九(昭和二十四)年一月十六日
 九時三十分高岸、しゅろ縄製造工場より出火。西北の強風にあおられ、同工場はもちろん、付近の家屋を六棟全半焼する大災害となった。同日十二時三十分ごろようやく鎮火した。被害額は約四二五万円。原因はたき火による失火。

一九五三(昭和二十八)年一月三日
 正午ごろ、大久保の通称サジボウ山より出火。晴天続きの上列風のため、付近一帯のスギ枝、枯枝などに引火し、スギ・クヌボ山林四町九反七畝(約四・九三ヘクタール)を焼失した。原因はたき火による失火。

一九五三(昭和二十八)年四月二十六日
 午前中に高野川の山林より出火。異常乾燥下で、雑草に引火した火が伐採跡地六反二畝二二歩をほとんど焼失し、更にこれに接続する高野川小西儀太郎ほか一五人所有の山林九町七反八畝二歩(約九・七〇ヘクタール)を焼失した。原因はたばこによる失火。
 双海町発足後は大規模な山林火災などは発生していないが、不幸にも死者を伴う火災が五件あった。

一九七八(昭和五十三)年九月二十五日
 高岸で住宅火災が発生、木造二階建一二〇平方メートル全焼、一人が死亡した。

一九七九(昭和五十四)年四月五日
 串で住宅火災が発生、木造二階建一六三平方メートルが全焼、一人が死亡した。

一九八六(昭和六十一)年四月十日
 高岸で住宅火災が発生、木造平屋建一二○平方メートルが全焼、二人が死亡した。

一九八七(昭和六十二)年一月二十六日
 上灘で住宅火災が発生、木造二階建二五七平方メートルが全焼、一人が死亡した。

一九九七(平成九)年四月十四日
 上灘で住宅火災が発生、木造二階建一二二平方メートルが全焼、一人が死亡した。

一九九九(平成十一)年一月四日
 上灘で林野火災が発生、原野三アールを焼失、一人が死亡した。


双海町消防団 歴代団長

双海町消防団 歴代団長


双海町消防団 団員数

双海町消防団 団員数


分団別消防機材配置図

分団別消防機材配置図


双海出張所出動状況

双海出張所出動状況


火災発生状況

火災発生状況


双海出張所救急活動状況 1

双海出張所救急活動状況 1


双海出張所救急活動状況 2

双海出張所救急活動状況 2