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双海町誌

第四節 通信報道

一 概   要
 郵便が発達する以前の通信法は、口頭・烽火等によってなされていた。その後文字が発明され、文書の送達による通信が順次発達していった。
 我が国の郵便の発達の沿革は、次に述べる三期に分けられる。

第一期 官用通信時代(駅制の時代)
 記紀(古事記と日本書紀)によれば、応神天皇の時代に百済から玉仁が来朝し、漢字を我が国に伝えたといわれる。これが普及するにつれて、しだいに文書による通信が行われるようになっていった。我が国に通信のための駅制が確立したのは、大化の改新に際して駅家・駅馬・伝馬の令が発せられたときからであった。
 その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことによって、駅制の中心も鎌倉に移ることとなった。また、この時代に始めて飛脚の制度が発足した。

第二期 飛脚時代
江戸時代に入って以降、幕府は中央集権的な政治組織を確保するため、交通通信設備の整備充実に努めていった。伝馬役を設置して、伝馬及び駄賃馬の制度を制定し、次いで道中継飛脚の制度を定めた。
 一六一五(元和元)年には、大阪城を守備していた諸士が、東海道各駅の長と協議したうえで、その家来を飛脚として初めて使うことを決めた。これは、毎月三回・八の日に書信を発送するもので、「大名飛脚」といわれるものであった。ともあれ、東海道各駅に私信逓信施設を初めて常設したことは、我が国通信史上に特記すべきことであった。
 その後、大阪の商人などがひそかにこれをまねるなど、商売にする者が増えていった。そしてこれが、「三度飛脚」という純然たる私人の業となるのは、一六六三(寛文三)年のことであった。ちなみに、当時の飛脚は東海道を六日ほどで走り抜いたので、世間ではこれを「定六」と称した。

第三期 新式郵便時代
 明治維新となってからは、諸制度の刷新が行われた。水陸運輸駅路の業務は内国事務局の所管となり、続いて駅逓司・駅逓寮が管轄することとなった。
 なお、一八六八(明治元)年九月には駅逓規則が、一八七〇(明治三)年二月には郵便規則がそれぞれ制定された。
 明治初期の郵便の経緯は、次のとおり。
・一八七〇(明治三)年五月……我が国郵政の父といわれる前島密か駅逓権正に任せられた。
・一八七〇(明治三)年十二月……東海道沿道の一二藩六県に対して信書郵便に関する要項が発布され、各駅に書状集め箱と切手売下所が設置された。
・一八七一(明治四)年三月一日……東京ー大阪間に三九時限のいわゆる新式郵便が実施され、一日一回両地から交互に発便することとなった。これが現行の郵便の誕生につながった。我が国通信史上、画期的な事柄であった。

 本町の通信
 郵便以外の通信手段としては、昭和三十年代に各集落に設置された有線放送があげられる。有線放送は、集落内の住民と行政をつなぐ唯一の通信手段として長年機能し、コミュニケーションを図ってきた。
 また電話は、双海地域においては一九二六(大正十五)年三月三十一日に開通した。一九六六(昭和四十二年十二月十五日の農村集団自動電話、一九七一(昭和四十六)年八月二十日の全自動化を経て今日に至り、現在では世帯のほとんどが加入している。
 情報化時代を迎えて情報通信分野の進展は年々めざましい。新たな媒体による情報の受信・発進能力が地域の活性化を左右することも考えられるため、情報通信網の整備は急務となっている。パソコン通信やCATVといった新しい情報通信ネットワークの活用能力を有する人材の育成と、その活用が望まれる。


二 郵   便
 本町における通信も、郵便局が開設されるまでは主として口頭によってなされていた。江戸時代には、幕府と諸藩を結ぶ公用通信制度としての駅伝による飛脚制度があり、上灘には常時人と馬を備えた駅が設置されていた。
 公用通信の伝達方法は、まず大洲藩主より上灘の代官所に送達され、次に代官所から各庄屋に公文書で送付、そして各庄屋が各戸に伝達する方法を取っていた。この方法は、一般によく使用された方法で、現在でも区長(組長)制として残されている。すなわち、役場から区長へ、区長から組長へ、組長から各戸へと伝達する方法である。
 明治になって郵便制度の発足とともに飛脚制度も廃止された。
 一八七四(明治七)年十一月一日には上灘郵便局が、一九〇二(明治三十五)年十一月十六日には下灘郵便局がそれぞれ開設された。以降、時代の変化とともに郵便局の業務も変わってきている。
 創設期の郵便料金は、重量と配達距離で区分されていたが、やがて距離区分が廃止されて全国一律の料金となった。その後は、料金改定を重ねて現在に至っている。
・一八七一(明治四)年……封書の重さ二匁(約七・五グラム)ごとに約二五里(一〇〇キロ)以内は一銭(一〇〇文)・約二〇〇キロまでが二銭(二〇〇文)・約四〇〇キロまでが三銭三○○文)・約八〇〇キロまでが四銭(四〇〇文)・それ以上は五銭(五〇〇文)であった。
・一八七三(明治六)年……封書の料金が二匁(約七・五グラム)ごとに市内一銭・市外二銭となった。また、この年から郵便はがきが登場した。料金は市内が半銭・市外が一銭であった。
・一八八三(明治十六)年……距離制が廃止された。国内郵便は封書が約七・五グラムごとに二銭、通常はがきが一銭、往復はがきが二銭となった。

 走り郵便
 明治・大正時代は、交通が発達していなかったため、郡中から長浜までは人夫を使用して郵便物を運んでいた。この人夫のことを「走り郵便」と称した。走り郵便は、自動車輸送が開始される一九二五(大正十四)年十二月一日まで存在した。なおその自動車輸送も、鉄道開通後は列車輸送にとって代わられた。
 走り郵便は、当時の駅逓局の指令によると「郡中一一時発・長浜一二時・豊田浦にて交換」とあることから、豊田浦(豊田)で交代して折り返していたことが分かる。


三 電   話
 通信手段として電話が現代生活に必要不可欠なものとなって久しい。本町においては、大正末期に開通したが、当時の設置台数はわずかで、しかも局の周辺に限られていた。
 それでも一九四五(昭和二十)年ごろには、上灘局で五二台、下灘局で二〇台普及し、一九五四(昭和二十九)年ごろからは日本電信電話公社の公衆電話や農村公衆電話が全集落に架設されるようになった。
 当時の『双海町誌』には次のような記事が掲載されている。
 一九五五(昭和三十)年後期から、二世帯共同及び一回線で数戸共同の農村公衆電話が普及したが、秘話式以外の電話では混線などのトラブルが多かった。
 一九七〇(昭和四十五)年には、次のように普及した。
 [双海局総数]六七五台
 [下灘局総数]三四八台
 下灘局の種類別内訳
・単独      六二台
・二世帯共用  一六二台
・三世帯以上  一〇九台
・委託式公衆電話 一五台(農村公衆電話一一台)
 加入者の急増により、手動による電話交換は、双海局では常時三人体制で対応しなければならなくなった。
 しかし、一九七一(昭和四十六)年八月二十日午後三時からダイヤル式に切り換えられることなり、全国ほとんどの局へ独自にダイヤルすることが可能になった。ちなみに、この時点の町内全域の加入者数は、約一八〇〇台(全世帯数は一八五二)であった。
 二〇〇三(平成十五)年現在の加入者は、双海局管内一二九八回線(アナログ一○七三回線)、下灘局六九八回線(アナログ六〇六回線)である。近年は、個人が携帯電話を所持するようになるとともに、電話の機能も留守番電話・ファクシミリ・キャッチホーンなど多岐にわたるようになった。電話の更なる進展が期待されるところである。
 なお、一九八五(昭和六十)年に日本電信電話株式会社(NTT)が発足したため、その二年後に双海局・下灘局は伊予電報電話局に移管されることとなり、閉鎖された。

下灘村営電話
 下灘地区は、終戦直後まで通信機関が非常に遅れていた。行政面からみても、集落と役場の連絡・集落間の連絡に手間どることが多く、また災害時の急報などの点からも何かと不都合であった。そこで一九四九(昭和二十四)年、村は村民の協力のもとに村内電話を設置することとした。
 当初は、各集落に三台だけの「集落電話」であったが、年々個人で加入したいという希望も増えていき、設置台数は七八台を数えるまでになった。「集落電話」は、なくてはならない存在となっていたのである。
 しかし、村以外とは通話ができない不便さから、徐々に地区の人々は同電話に代わる農村公衆電話の設置を要望するようになっていった。そして一九五七(昭和三十二)年、農村公衆電話が架設されるに及んで、同電話は廃止されることとなった。


四 報   道
 報道されるニュース等を受ける媒体としては、明治以降昭和の初期までは、新聞によるところがほとんどであった。
 愛媛県内では、一八七六(明治九)年に初めて松山で新聞が発刊され、県内各地に販売所が設けられていったが、町内の販売店の開業時期は明らかでない。当時は、その新聞にしても一日ないし二日は遅れるのが普通で、大きな出来事などは新聞号外で知らせる方法がとられた。
 二〇〇四(平成十六)年現在の講読部数は、上灘地区九〇〇部、下灘地区六五〇部である。
 ラジオが町内に導入されたのは、昭和の初期であった。下灘では、一九二九(昭和四)年ごろに広田幸衛門(満野)が、当時ダイナミックと言われたラジオを一〇〇円で購入した。報道・娯楽に乏しかったこの地区では、大変珍しがられ、大勢の人が聴きに集まったという。ラジオは、その後数年間で各家庭に急速に普及していった。
 テレビは、一九五三(昭和二十八)年から一九五五(昭和三十)年にかけて町内にも導入された。視聴料金の関係で無届けで視聴している人もあったため、初めて購入した人や購入年月日等は明確ではない。山間や谷間に集落が点在する本町では難視聴対策が問題であったが、NHKがUHF電波中継所を設置したことと、共聴施設の整備によって難視聴地域は解消された。また、人工衛星によるNHKや民間のBS放送が視聴できるようにもなり、現在ではテレビはほとんどの家庭へ普及している。


五 町内の通信情報網
広報用集落有線放送
 一九五四(昭和二十九)年、行政や各種団体機関からの伝達を正確に一度に全地域の人に周知することを目的に、有線放送施設が設けられることとなった。第一号機は同年三月に上浜に、第二号機は同年四月に奥大栄に設置された。これは、伝達の機能ばかりでなく、集落内の住民と行政とをつなぐ唯一の通信手段の機能も持ち合わせていたため、各集落に急速に普及していった。方式は、灘町・城ノ下・本郷・両谷・上浜が各戸引込方式のほかは、大部分がトランペット方式であった。
 現在では、老朽施設の更新等の整備を図りつつ、全集落で運用されている。

防災行政無線
 二〇〇〇(平成十二)年一月から運用を開始した。町内全域を網羅した屋内・屋外用が設置され、災害時の緊急連絡や時刻を知らせるミュージックチャイムが町内一斉に放送されている。


六 地域情報の発進
 町内の情報紙として『広報ふたみ』(発行 双海町)が月一回発行されるほか、議会広報紙の『夕焼けとんび』が年四回、社会福祉協議会の『社協だより』が偶数月に発行されている。また、地域安全ニュース『いよ』、『由並小学校だより』、下灘中学校の『若潮』なども毎月各家庭に配布されている。
 なお、全戸に周知する際や、緊急時の情報発信には、行政無線が活用されている。
 また、インターネット上によるホームページを開設し、全国はもとより世界からリアルタイムで双海発の情報に触れることができる。


郵便料金の変遷

郵便料金の変遷


双海郵便局 変遷

双海郵便局 変遷


双海郵便局 歴代局長

双海郵便局 歴代局長


下灘郵便局 変遷

下灘郵便局 変遷


下灘郵便局 歴代局長

下灘郵便局 歴代局長


電話 『双海町誌』

電話 『双海町誌』


農村公衆電話

農村公衆電話