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双海町誌

第二節 近世の交通

 前面を海岸に、また三方を急峻な山岳に囲まれている本町の陸路は、寛永年間(一六二四~一六四四年)にかけて、現在の大洲市長浜から上灘に移ってきた庄屋・治左衛門の町づくりから急速に開けていった。
 当時は、上灘の久保集落と現在の由並小学校の下に納米御蔵が置かれ、蔵番は高野川村の宮田兵治良と、高岸村の岡田半蔵の家が、代々その職務を努めていた。また海辺城跡には浜筋代官所が設置されて代官が配置されていた。諸用件は、この浜筋代官から全村の庄屋へ公文書で伝達されていたのである。
 当時の浜筋とは、広田・佐礼谷・中山・石畳も含まれていたから、この御蔵には広田・佐礼谷・中山・石畳・高野川から大久保までの年貢米、麦・粟・大豆・小豆が納められていた。ちなみにトウキビ・ソバなどはお目こぼしされていたということである。

一 曳   坂
 上灘の港から曳坂を経て中山街道に至る道路は、前述のように寛永年間から発達していた。人馬の往来は頻繁で、活気に満ちていたという。当時のものと思われる道路の原形が、昭和四十年代にはところどころに残っていた。
 御蔵の年貢米は、すべて上灘の港から大阪の御蔵屋敷へ船で運ばれていった。上灘の港が、早くから開港していたのはこのためである。
 また、当時の大洲藩主の江戸への参勤交代で、肱川を下って長浜・上灘・郡中をたどる水路がとられたことも、藩主の船着場として早くから港を開くことになった原因といわれる。
 この当時は、阪神方面、大洲、長浜を結んで、貨物の積出しも行っていた。六反帆の船が出入りしたのは、上灘が産物の集積地であったためである。

二 滝山往還
 滝山往還は、大洲と郡中を結ぶ主要路で、大洲・八多喜・白滝・滝山を経て松尾・池之窪・下浜・上浜から海岸を通り郡中に至る道であった。
 この道は、海岸道路ができるまでは大洲ー郡中間の近道でもあり、大正中期ごろまでは人の往来が活発であった。なお、道の要所には八多喜の庄屋である上田久太郎によって道標が建立されていた。この道標は、道行く人々にとっては大助かりだったため、多くの人から感謝された。