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双海町誌

第一節 概要

一 交通運輸
 双海町は地理的条件に恵まれず、人々の移動、物資の輸送などは苦難の連続であった。海岸道路も整備されておらず、砂浜が主要な通路であったため、潮の満ちたときや波が高いときなどは、通行に支障をきたし、「よけ道」という幅員三〇センチほどの道をつくって急場をしのがなければならなかった。
 藩政当時、上灘には庄屋が置かれ、年貢米の収納御蔵や代官所(浜筋代官)も設置されていた。上灘には、中山・佐礼谷・広田・石畳・高野川から大久保までの年貢米が収納されていた。そのため、上灘から中山街道を結ぶ曳坂は、人々の往来が盛んであった。
 この御蔵に収められた年貢米は、大阪の御蔵屋敷に船で運ばれていた。つまり上灘の港は、このころから大阪航路を開設し、六反帆の船が出入りするようになっていた。
 一方、大洲から松山に通じる道には、大洲・八多喜・白滝・滝山を経て松尾・池之窪・下浜の海岸へ出る滝山往還があった。そこから海岸を経て郡中に通じており、大正中期ごろまで人々の主要な通路であった。
 これらのほかには、朝が峠・鳥越峠・佛堂峠を経て、それぞれ田処・麓・石畳地区へ通ずる主要道があった。これらの主要道は、明治から大正にかけて、特に木材・薪の搬出に大いに利用された。
 明治の末期に至り、周辺地域との日常的な交易が必要になり、地区住民の海岸道路建設の要望が高まっていった。住民の声を反映して、長浜・喜多灘、下灘・上灘・北山崎の関係町村は、郡中-長浜海岸道路促進委員会を設置して道路の開設に努めることとなった。そして関係者の努力は実り、一九一二(明治四十五)年に工事に着手し、一九一三(大正二)年、三秋の峠や小網の隨道などの一部を残してほぽ完成した。その後海岸道路は、一九一六(大正五)年に郡中ー長浜問が郡道として全線開通した。
 地方産業の開発には、道路の開設が重要な役割を果たす。地元住民の道路開設の要求は県を動かし、広田ー双海線、中山―双海線、内子―双海線、串ー中山線、串ー内子線が次々と県道の認定を受け、内子-双海線を除く四線が完成を見た。
 一九三一(昭和六)年~昭和七年には全国的な農村不況に襲われた。国は憂慮し、全額国庫負担で各地に救農土木事業として道路の新設や改修を行った。
 一九三二(昭和七)年から昭和十年にかけて双海地域に鉄道(国鉄)が開通したので、本地域は面目を一新して、文化の交流が盛んになり産業経済に一層の活気を帯びるようになった。
 太平洋戦争後は、農機具・運搬車・自動車の普及が進むとともに、農道も次々と整備され、農業の経営も近代化・合理化されていった。
 一方、海路については、前述のように上灘港は、古くから阪神方面に航路を開き、寛永年間には六反帆による薪やロウ・紙などの原料の積出しが盛んであった。明治から大正にかけても、航路の往来は活発で、木材・薪(クヌギ)の積出しが行われていた。
定期航路の開設は、貨物船が初めて寄港した一八九三(明治二十六)年であった。その後一時中止されたが、一九〇六(明治三十九)年に三津ー二名津間が再び開かれ、鉄道の開通まで主要な交通機関として住民に利用された。
 全般的にみて、本地域の交通機関は、地形的な条件で開発が遅れていたため、人の力に頼るものが多かった。運搬用には、オイコ(カルイコ)や天秤棒などが多く使用されていた。同じく運搬用として考案された猫車は、この地方では最も利用度が高く、経済性の面からも評価された。一方、牛馬も木材の搬出等に多く利用された。犬寄峠・朝が峠・鳥越峠・佛堂峠などは、牛馬につけた鈴の音で賑わったという。しかしその後、道路の開設をみるに及んで、馬車が出現し、更に自動車時代へと変遷した。自動車の数は年々増加し、スピード化、大型化していった。


二 通信報道
 本町における通信手段は、古くは烽火、太鼓、法螺貝、鐘等であった。しかし、最も日常的に多く使用されたのは、口頭伝達であり、今日でもその仕組みは残されている。文字ができてからは、文書による伝達方法もとられたが、末端までの文書は少なく、依然として口頭によるものがほとんどであった。
 江戸時代の幕府と諸藩を結ぶ公用通信制度としては、飛脚制度があげられる。これは、人と馬を常備していた駅伝制度のことで、郡中・上灘・原町などに駅が設置され、免租・供米が行われていた。飛脚は後に、騎馬・金・米などの専門飛脚に分かれていくとともに、町人が私設するものも発達した。ちなみに、江戸時代の継飛脚は、東京ー京都問を六六~八〇時間で急行していた。
 明治に入ると、通信の発達は著しくなり、一八七一(明治四)年には郵便取扱所が郡下の主要地である郡中’松前・中山・砥部などに設置された(上灘への設置は明治七年)。郵便取扱所は、それまでの飛脚制度に代わるもので、手紙・はがきの集配はもとより、小包・為替などの取扱いも行った。
 電話が入ってきたのは、大正時代であった。一九二二(大正十一)年、通話業務が開始されるとともに電話機も徐々に増加していった。昭和四十年代には急激に加入者が増えて、日常生活が極めて合理化されるようになった。
 報道については、明治以来、新聞によるところがほとんどであったが、ラジオが出現してからは文化教養・娯楽の面からもラジオが主役になっていった。その後、急速なテレビの普及により、テレビが王座を占めるようになってきた。現在ではパソコンや携帯電話の普及により、インターネットや電子メールも重要な通信システムとなっている。