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双海町誌

第一八節 昔話と伝説

 昔話は、「昔々あるところに……」という決まり文句から明らかなように、時代と場所を特定しない。
 また、「おじいさんとおばあさんが……」という具合に話が進み、登場人物の氏素性などが問われることもない。つまり、はじめから空想の産物であることを、語り手と聞き手の双方が了解し合ったうえで伝えられてきた。
 一方、伝説は、実在の場所や人物などにまつわる起源説話が主体であり、過去の話というよりも、現在まで影響を与えている出来事として語られていた。ただし、あまりに荒唐無稽な内容の話は、例えその中に固有名詞が現れても、普通はフィクションとして受け入れられたはずである。
 この節で紹介する話は、右の定義からいえば、すべて双海という特定の地域の伝説ということになるが、昔話としてとらえ、当時の人々のものの見方や考え方に触れる資料という性格が強い。

一 池之窪のお地蔵様の由来(池之窪)
 江戸時代の一七一八(享保三)年のことである。肥後熊本の殿様が参勤交代で江戸へ行くために上浜沖を通っていたところ、突然暴風雨に巻き込まれ、船が沈みそうになった。殿様をはじめ全員が神様に助けを求め、海岸に向かって一心に祈った。すると、この船に向かって池之窪の地蔵堂から一筋の光が走った。そして嵐がすぐにしずまり、波も穏やかになって、乗組員全員が助かった。
 参勤交代を終えて江戸から帰る途中、殿様と乗組員は上浜で船を降りて池之窪のお地蔵様をお参りした。そして、助けていただいたお礼にと、浄土(ショフド)の浜から池之窪まで一列に並んで石を運び、お堂の周りに石垣をつくった。
 それからというもの、お地蔵様の不思議な力が評判となり、大勢の人が行列をなしてお参りするようになった。そして、噂はついに大洲の殿様にまで聞こえるほどになった。ところが大洲の殿様は、お地蔵様を如法寺(大洲市柚木)に差し出せといってきた。殿様の命令にしたがって村の使いの者がお地蔵様を大洲へ持っていき、代わりに米一俵(六〇キログラム)をもらって帰った。しかし、使いの者は村に帰って三日もしないうちに死んでしまったのである。
 この出来事は、代々村人に語り継がれた。それから一八〇年ほどが経過した明治時代の半ば、村人たちのあいたでお地蔵様を再び池之窪にお迎えしようという話が持ち上がった。村中で相談した結果、本村の和尚様にお願いして如法寺と交渉してもらうことになった。多額のお金を出すことで交渉は成立した。そして明治二十九年二月二十四日、お地蔵様は無事池之窪に戻ったのである。それ以降、毎月四日がお祭りの日となり、お参りする人の数は以前にも増して増えていった。
 明治三十年旧暦六月二十九日の朝のことである。一人の村人が、お堂の下の道に布のかぶりものが落ちているのを見つけた。
村人は「これはお地蔵様の帽子に違いない」と思って急いでお堂のなかに入ってみると、既にお地蔵様の姿はなかった。盗まれたのである。そこで村中の人が集まり、みんなで手分けして探すことになった。しかし、松山から宇和島方面まで訪ねたり、占いに頼ってもみたが、発見できなかった。
 それから二四、五日過ぎたころ、どうやら郡中(伊予市)の谷上山にあるらしいという噂が立ったため、村人が訪ねていった。
すると谷上山の寺主は、「そのようなものはまったく知らないし、持ってきた人もいません。しかし、それではお困りでしょうから、私の寺の銀の仏様を安く分けてあげましょう。持って帰って、元のお地蔵様だと嘘を言ってお祀りしなさい。もしこのことがみんなに知れた場合は、谷上山の観音様をお迎えしたと言えばいい」と言われた。村人は「なるほどそれはよい方法だ。お地蔵様があることがほかの町や村に知れわたれば、盗人はわれわれが仏様をもう探さなくなると思うだろう。そして安心してどこかへ持ち歩くだろう」と考え、谷上山の銀の仏様を頂戴して帰った。
 旧暦八月十一日になって、小網から池之窪のお地蔵様らしいものを持っている者がいるという話が届いた。二人の村人が急いで小網にかけつけ、詳しく尋ねてみると、まちがいなく池之窪のお地蔵様であった。
 上灘の警察官の調査で、三人の男が逮捕された。そして三人は、郡中の警察に引き渡されて重い刑罰を受けた。
 お地蔵様が見つかった経緯は、次のとおりであった。
 犯人の一人が盗んだ仏様を売ろうと思って持ち歩いていると、仏様の力によって倒れたり頭が痛くなって苦しんだりした。そして、やっとのことで小網までたどり着き、ある家に預けた。しかし、この仏様が不思議な力を持っていることが知れわたり、大勢の人が拝みにくるようになった。ある時などは、魚を食べながら拝んでいる人に金剛杖が飛んできたこともあった。人々は、これほど力のある仏像は池之窪のお地蔵様に違いないと言い合った。
 池之窪では、村人たちが真剣に話し合った結果、八月十四日にお地蔵様を迎えにいくことにした。すると、十二日から二晩続いて地蔵堂の堂山から火の玉が連なって大きく光輝き、人々を驚かせた。この現象は、上灘の人々や巡査をはじめとした郡中近辺の人たちも確かに見たという。
 池之窪の村人たちは、豊田から網船を雇って様々な飾り物をし、威勢のよい声を張りあげてお地蔵様を迎えた。お地蔵様が盗まれてから四〇日余りの間、村中の人々が嘆き悲しみ、みな病人のようになっていたが、お地蔵様が帰った途端に元気になって顔色がよくなり、村は元の賑わいを取り戻した。
 お堂も立派に建てられ、そこに石の仏様・銀の仏様・木の仏様の三体が納められた。石の仏像は木の仏像が大洲に召し上げられたあとに代わりに据えたものであり、銀の仏像は谷上山から迎えた聖観音様である、そして、木の仏像はここのお堂に最初からあったお地蔵様で、地蔵大菩薩といった。
 (この話は、一八九八〈明治三十一〉年、池之窪の高橋浅吉が、後世の人々のために書き残していた「堂山地蔵尊記録」を分かりやすく書き直し、「池之窪のお地蔵様の由来」としてまとめたものである)

二 血口と切っ先大明神(奥西)
 四国平定をねらう土佐の長宗我部元親が、黒山城へふたりの小姓を間者(スパイ)として送り込んだ。城では、このふたりが怪しいことに気づき、厳しく調べた。すると、そのひとりが一通の機密文書を持っており、そこには、彼らが時機をみて城内からのろしを上げ、それを合図に長宗我部軍が一気に黒山城を攻略するという計画が記されていた。
 黒山方は、直ちにふたりを処刑し、城内の一角で茅やワラを燃やしてニセののろしを上げた。土佐方は、これを間者の合図だと信じていっせいに攻め寄せたが、黒山方は敵勢をおびき寄せる作戦を取り、城の上から大石や大木、竹槍などを投下して、土佐方をさんざんに悩ませた。
 その後、両軍は豊田川の上流あたりで何度も激突したが、兵力の差はいかんともしがたく、黒山方はついに命運尽きて城へ引き上げた。この数度の合戦で双方ともおびただしい死傷者を出し、戦で流された血がかたまった場所を、血口と呼ぶようになったという。

三 黒山の石神(大久保)
 黒山城の中腹にある黒山大権現の石像は、もともと初代黒山城主久保伊予守高実が、黒山神社の前身である滝野権現にお祀りしてあったものだと伝えられる。
 ある年、黒山で大きな山火事が起こり、石の権現像も半面が猛火を受けて、鼻が欠けてなくなり、痛ましい姿となった。しばらく年が経ったある日、大洲の石工と名乗る所から「権現様ができたから受け取りに来るように」との知らせがあった。お宮の総代は、誰に依頼されたのかと不思議に思いつつ、ともかく大洲に出向いて事の子細を石工に申し上げた。石像を見れば、同じ姿のご神体ができており、不思議に思った石工は「無償で寄付させていただきます」と申し出た。お宮の総代は、権現様をうやうやしく背負って帰り、お宮の岩の上に安置した。ちなみにその御神体は、現在も鼻のない石像と並べて祀られている。
 その後、船が黒山の沖に来るとぴたりと停まってしまうという、怪しい出来事がたびたび起こった。ある寺で占ってもらうと、「これは、権現様をお祀りする向きが間違っているせいだ」という。さっそく豊田の方に向きを変えてお祀りしなおしたところ、それからは、どの船も海の上で立往生することはなくなったそうである。

四 黒山の大蛇(大久保)
 黒山には昔から大蛇が住んで、瀧山城との間を使者として行き来しているという伝説があった。そのいわれは、天正二(一五七四)年八月に滝山城主久保豊春が討ち死にしたため、黒山城主の次男孫六を養子に迎え、両家の関係が結ばれたことに由来している。その大蛇が通るときは、太く重い胴で茅も草もなぎ倒しながら進むので、ゴーゴーと山鳴りのような音がする。その姿を見た者は、恐怖と驚きでたちまち病に臥してしまうとうわさされた。
 あるとき、ひとりの樵が山道の途中で一服しようと、道の脇に具合よく倒れていた松の木に腰をおろした。穏やかな日和でいい気持ちだなどと思いながら、キセルにたまった灰を落とすため、腰掛けている松の幹を二、三度たたいた。すると松の木がぐらりと動き始めたので、よく見ると大蛇の胴体であった。樵は、その場で腰を抜かしてしまったということである。

五 黒山の伝説あれこれ(大久保)
黒山城の金の茶釜
 黒山城跡には、深い井戸があるが、この井戸の底には金の茶釜が隠されているという。「大洲旧記」(一七九九〈寛政十一〉年作成の旧大洲藩所蔵の古文書で、現在は大洲市が所有している)に、「黒山城の釜は茶湯釜にして、百姓政五郎という者が持てり。縦長くして口広くはなし」とある。

黒山の岩
 城の下のほうに美しい姿をした岩があり、鎧兜を納めてあるという伝承があった。この岩にお参りをして願をかけると、晴れていた空もたちまち曇るといわれた。

黒山城にまつわる人々
 黒山城落城後、ひとりの老婆が城を出た。豪気な性質で大力があったが、その後は庄屋に養われて生涯を終えたそうである。
 また、池之窪に久之丞という者が住んでおり、黒山城の家老の末裔だといわれた。九寸五分(二八・八センチ)の短刀と叩き鉦を持っていたが、先祖伝来の品だという。

六 富岡橋の化け物(富岡)
 昔、富岡橋の上に夜な夜な若い美女が現れ、橋を渡る人たちを驚かせ、かつ迷わせていた。春雨や梅雨がしとしとと静かに降る晩には、高下駄に唐傘という、いよいよあでやかな姿である。
 その娘さんが自分の知り合いの誰かに似ていたと話す男が、あちこちで不思議に多かったが、誰も口をきいて確かめた者はない。恐ろしさに横を向いて走りすぎてから、ようやく振り返って娘を見ると、橋の欄干に腰をかけて、さびしげに沖のほうを見ていたという。
 この谷は非常に深く、岩がたくさんあって、かねてからカワウソの住む場所であった。この獣が美しい娘の姿に化けて、神前で誓ったかどうかは知らないが、一〇〇人の男どもをだまそうと、大願をたてていたのだと伝えられている。

七 安徳様(上浜・下浜)
 源平最後の決戦場となった壇ノ浦で、敗れた平家方の安徳天皇は、清盛の未亡人に抱かれ神器とともに海中に身を投ぜられた。この幼帝の御遺骸は豊ケ浦(豊田の浜)に流れつき、土地の者たちによって祭られたと伝えられる。豊田奥の御所、上ケ市、伏野、曳地、八倉屋敷などの地名は、この伝承に関係しているのかも知れない。

八 百八頭塚(池之窪)
 池之窪地区に、自然石を墓碑とした古い墓群が残っており、百八頭塚と呼ばれている。この地方が、滝山城主久保美作守国春の代に、土佐の長宗我部元親によって攻め落とされたとき、勇戦むなしく倒れた武士たちの墓だという。近くには滝山城主一族と関係の深い西光庵や地蔵堂があることから、確かにありそうなことだと思わせる伝承である。

九 法師(松尾)
 瀧山城落城ののち、旧城主国春は、武門を捨てて本村の民家に下ったが、その後家臣の一部が世話人となり、この土地に住み着いたとされている。元屋敷、黒裳屋敷は、その当時の屋敷の跡だという。
 この集落の起源は明らかではないが、一七一七(享保二)年ごろには串深山という呼び名であったこと、一七九五(寛政七)年に法師と改称されたことが、古記録によって知られる。

一〇 よせ彦神社と物干し(満野浜)
 満野の高月宅の上の丘に、大小とりまぜた五基の塚があり、この場所をよせ彦神社という。昔、この沖あいで大時化のために一隻の船が難破して満野の海岸に打ち上げられたとき、水死した者たちを葬ったところだと伝えられる。かつてはここに小さな家もあり、村人たちが寄り合っておこもりなどもしていた。
 物干しという珍しい地名は、その船が難破したとき、潮にぬれたいろいろの品物を干して乾かしたことからつけられたそうである。

一一 三島神社の御石体(三島)
 三島地区がまだ富岡と呼ばれていた古い時代、加藤吉広という、狩りの大好きな浪人が住んでいた。吉広は毎晩のように獲物をもとめて、あちこちの山や森を歩きまわっていた。
 ある夜、中山町の小池地区まで足をのばし、とある大樹の下でひと休みしていたとき、にわかにゴーッという山鳴りが起こり、天地も崩れんばかりに揺れ動いたかと思うと、目の前の暗闇にどこからかひとすじの光がさしこみ、そこに神らしいものの姿をくっきりと浮かび上らせた。はっとして思わずひれ伏した吉広の耳に、金鈴を振るような神の声が聞こえてきた。「われは、この地に年久しく鎮まる三島の神なるぞ。汝の住む里にわれを迎えて祭るならば、もろもろの幸を授けるであろう」「恐れ多いことでございます。ただただ御心に従いましょう」と、吉広が答えると、「神霊はここにあり」というお告げを残して、神の姿は一瞬に消えうせ、あとにはもとどおりの深い闇があるばかりだった。
 神様のいた場所に歩いて行くと、吉広はそこにひとつの石があるのをみとめた。これこそ三島の神の霊石であると、大切に持ち帰って神社に納めた。それが現在の三島神社である。吉広は、その後、姓を二宮と改めた。
 この御石体には、もうひとつ別の縁起譚も伝えられている。
 本尊城主の弟であった土佐守某が夜の狩りに出かけ、木の下でうとうととまどろんでしまったとき、夢の中で神様のお告げを受けた。そうして御神体を手にしたと思ったとたんに目が覚めたが、見ればしっかりとその石をかかえている。それを持ち帰って祭ったのが、現在の三島神社の起源だということである。

一二 岡の石仏(岡)
 戦国時代、稲葉帯刀という武将が上灘の岡に居城を構え、あたり一帯を支配していた。長宗我部元親がこの地方に攻め入ったとき、ちょうど五月の節句のころであったため、帯刀は長宗我部勢が各所に掲げた旗を城下の家々の五月幟と見あやまり、迎撃の態勢をとるのが遅れ、とうとう不覚の敗死を遂げることになった。
 そののち帯刀のために石仏が地元に立てられたが、数百年を経て、あたりは往時をしのぶすべもないほど荒涼としている。
 しかし、岡の人々は後世まで旧主帯刀の無念な最後を忘れず、五月幟を揚げないならわしをいまなお守り続けている。

一三 正光寺の阿弥陀仏(久保)
 かつて正光寺の本尊として祭られていた阿弥陀仏は、戦国時代に久保にあった天台宗の道場から伝わったという由緒ある仏様である。その天台道場は、土佐の長宗我部元親がこの地に攻め込んだときに焼かれてしまい、かろうじて難を逃れた阿弥陀仏は、やむをえず小さなお堂に安置された。
 それから一〇〇年ほどたったある年、この地方を訪れていた黙室然公という和尚の夢の中に、青衣を着た童子が現れ、「われはその昔兵火にあいし仏なり。われをこの地に祭るべし」と告げ、大栄口の方角を指さして消えた。和尚はこれを阿弥陀仏の霊験に違いないと考え、寺を新築する相談を村人たちにもちかけたところ、みなが涙を流して賛同した。こうして人々の協力により、一六七五(延宝三)年、阿弥陀仏を一世紀にわたる仮住まいから、新しく建てられたお寺にお迎えした。これが、いまの正光寺が生まれた由来である。

一四 亀の石(本郷)
 本丸と通称されるところの海に、亀によく似た形の石があり、亀石と呼ばれていた。満潮のときには、澄んだ水を通してゆうゆうと泳ぐかのような姿が波の下に透けて見え、干潮になるといよいよ亀の背にそっくりな形を水のうえに現した。ただし、この石に足をかけると腹痛を起こすという言い伝えがあるので、誰も上にのぽる者はなかった。
 昔、大洲藩主がこの石に目をつけ、藩邸に運ばせて庭石とした。ところが夜通し悲しげに泣く声が聞こえるので、藩主もあわれんで元の場所に戻してやったという。

一五 亀の森(本郷)
 高岸の三島神社では、昔から吉事凶事のどちらがあるときも、必ず付近で大きな亀が目撃された。多くの場合、近くの海面に姿を見せる程度だが、一七七六(安永五)年に神社が全焼した大火事の際には、海岸近くまで大亀が来て、社殿が焼け落ちるのを悲しげに眺めていたという。一八八四(明治十七)年、神社が新しい神主を迎えたときには、大亀が海岸まであかって来たといわれている。
 こうしたことから、村人たちは大亀を神の使いだと信じ、神社の建っている一帯を亀の森と呼ぶようになった。

一六 宮崎の石地蔵(灘町)
 万治年間(一六六〇年ごろ)に上灘村の世話役を務めていた武智三郎左衛門という男が、あることで罪を得て家族ともども灘町宮崎で斬殺された。このとき三郎左衛門の末子だけは、逃れて本尊山に分け入った。山中にも探索の手が及んだことを知ると、末子はシダの茂みに身をひそめ、じっと息を殺した。追っ手の者たちも、まもなくそこにやって来たが、ウグイスののどかなさえずりを聞いて、あたりに人がいない証拠だと考え、すぐに引き返していった。末子は、ウグイスとシダに命を救われたと感謝して、そのふたつをあしらった図案を以後武智家の家紋と定めた。いまも正光寺に安置されている父親三郎左衛門の位牌にも、この紋が描かれている。
 上灘の村人たちもまた、斬殺された三郎左衛門一家の冥福を祈り、大きな石の地蔵尊を建立して彼らの霊を弔った。昭和の中ごろまで、お盆の燈篭流しの際に、この地蔵尊に念仏を唱えるならわしが残っていた。
  聞き伝う昔の人のあわれさを
      ないてとむらう鴬の声
         (読み人知らず)

一七 本尊山の大雨ごい(灘町)
 一七二七(享保十二)年、この地方で大旱魃があり、せっかく植えた稲も枯死寸前の状態だった。あちこちの集落ごとに雨ごいの儀式がくりかえされたが、いっこうにききめがなく、農民たちは、来る日も来る日も晴天をうらめしげに見上げては、ため息をつくばかりだった。
 当時の代官徳田惣左衛門正昭は、ついに意を決し、管内のすべての村を結集して、前例のない大がかりな雨ごいを断行することにした。現在の本町をはじめ、中山町、広田村、内子町に合併されている旧立川村、石畳地区などのそれぞれの庄屋を、従者とともに本尊山に集合させ、おこもりと断食の行をすることを命じたのである。庄屋たちは代官の考えをよく理解し、この空前の雨ごいの勤行を忠実におこなった。その至誠が天に通じたか、まさに勤行の終わる満願の日、晴天が見る間にかき曇ったかと思うと、ひさかたぶりの慈雨が地方一帯の山林田畑に降りそそいだ。祈願を果した庄屋一同は、歓声をあげて喜びあったという。

一八 犬寄峠(犬寄)
 江戸時代の前半、高野川の端に住む佐右衛門という浪人がいて、大洲藩と松山藩を結ぶ御用飛脚の仕事で生計を立てていた。佐右衛門は鉄砲の名人といわれ、空を飛びながら鳴いている鳥の舌を撃ち抜いて落としたとか、三秋の池に棲んでいた大蛇を討ち取ったとかの伝説もあった。
 ある夜遅く、佐右衛門が松山からの帰途、峠道にさしかかったとき、一頭の山犬が現われ、いまにも佐右衛門に襲いかかる気配を見せた。こういうことには慣れている佐右衛門、少しもあわてず腰の一刀を抜いて、山犬を真っぷたつに斬り捨てた。斬られる瞬間、山犬の「ウオーッ」という断末魔の声が、夜の山中の静けさを破って、あたり一帯にこだました。と、見る間にそこかしこの林からも草むらからも次々に仲間の山犬が飛び出した。その数は何十頭にも達し、山犬どもは輪をつくって佐右衛門を取り巻いた。
 佐右衛門は、腕に足にと襲いかかるそれらの獣を無我夢中で斬りまくったが、斬っても斬ってもあとからあとから現れて、気がつけば、見たこともないほどの山犬の大群と向かい合っていた。進退きわまった佐右衛門は、近くの松の大木に狼のようによじのぽり、高い枝の上でひとまず胸をなでおろした。
 ところが、下を見れば、山犬どもは松の幹にすがりながら何段にも肩車をして、佐右衛門のいる枝の高さまで迫ってくる。佐右衛門は、樹上で何頭かを斬り殺したものの、とうとう梢まで追いつめられた。もはやこれまでか、と観念しかけたそのとき、佐右衛門は手にしている刀に不思議な雲力がそなわっていることを思い出した。その刀の目抜き(目釘)には鶏の飾りがあり、血の温かみを加えると精を得てたちまちときをつくると、かねてから聞き知っていたのである。佐右衛門は、「この鶏、真に精霊あるものならば、直ちに鶏鳴を発せよ」と祈り、静かに瞑目した。するとたちまち刀は、「ケッケコッコー」と高らかに響く声を発した。これを聞いた山犬どもは、夜が明けては大変と、にわかにうろたえ、次々に松の木をおり、周囲を囲んでいた大群とともに、おおあわてで退散していった。逃げ去りながら、山犬どもは口々に。「ああ残念、佐右衛門の女房の山猫がここにいたなら」といってくやしがった。このあと帰宅した佐右衛門は、自分の女房は久しい以前に山猫に食い殺されていて、その山猫が女房になりすましていた事実を知る。化け猫女房は、佐右衛門の鉄砲でしとめられた。
 この話は大洲の城下の評判となり、藩公の耳にも達して、佐右衛門はおほめのことばをたまわった。
 佐右衛門は一六九四(元禄七)年八月十六日に世を去った。

一九 腹切地蔵と呑まずの池(松尾)
 今のように交通が発達していない江戸時代の出来事である。
 下灘の豊田より池之窪・松尾を経て山道を登ると腹切地蔵がある。更にそこから横道づたいに行くと呑まずの池があり、それを過ぎると馬乗り地蔵に至る。そこから長浜町に入ると、下り道である。樫谷・戒川・手成・八多喜を通って大洲の城下へ通ずるのが昔の滝山往還の街道筋であった。この物語は、多くの人たちが行き来したというこの街道に伝わる話である。
 何日も食べていない腹を空かせた山賊が、昼過ぎに泉の出る池で水を飲んで空腹をいやしていた。そこへ和尚が通りかかった。山賊は和尚を呼び止め「坊主、どこへ行くか」と尋ねた。「仏事の帰り道じゃ」と和尚は答えた。「すると酒は呑んだか」とまた山賊が尋ねた。「酒は呑まなかったが、うどんを食べた」と聞いた山賊は、これはしたり、まだ胃の中にうどんがあると思い、いきなり和尚を殺して腹を切り開いた。そして胃の中のうどんを取り出し、池の水で洗って食べてしまった。
 このことがあって以降、この池は「呑まずの池」と呼ばれるようになった。そして、通りかかった旅人は誰一人として水を飲まなかったという。
 村人たちはこの和尚を供養するために石地蔵を安置して祀った。この地蔵は「腹切地蔵」と呼ばれた。いつからかこの地蔵は、二つに切られたように割れている。

二〇 日喰の平助岩(日喰)
 下灘駅の沖合約五〇メートル先に八畳岩(畳八枚敷ける岩)がある。その東沖に平助岩という大きな岩があって、それにまつわる話である。大潮の干潮時にはその上に人が立てる海中の大きく不気味な岩で、魚介類の宝庫といわれていた。
 年代はさだかでないが日喰に住む平助は蛸捕りの名人で、春は木ノ芽蛸を、秋には秋蛸を狙って浅瀬を歩いて蛸を捕り酒の肴にしたり近所へ配ったりしていた。ある夏の昼さがり平助は岩に自生するワカメを刈り採りに鎌を持ちこの岩に立った。下を見下すと岩陰に大きな蛸がゆっくりと頭を出しているのを見つけた。蛸捕り名人の平助は見逃すはずはない。これは得たりと海中深くもぐり込み、蛸を捕りにかかった。余りの大きさと力の強さに圧倒されて丸ごと捕えること叶わず、腰に付けた鎌で一本の足を切りとることがやっとで、息絶え絶え水面に浮かび上った。一本の足とはいえ十分な量に値する大きさである、それを持ち帰り料理して食べた。数日後、今日こそはと意気込んで、その蛸の巣をめがけて海中へもぐり蛸を見付けて格闘したが、やっとの思いで二本目の足を一本しか切り捕ることができなかった。その繰り返しの八回目の日になると、今日は体全体が捕れる、足は一本しかないからといって嫁に料理の準備をするよう申し付けて出かけて行った。蛸も日毎に足を切られ恨み百倍である。一方の平助は一本しかない足だと気軽な気持ちで蛸の巣へもぐり込んだ、すると残る一本の足が平助の来るのを待ちかまえて首めがけて巻き付き力の限り締め付けた。ついに息絶え殺されたという。それからこの岩を平助岩と呼ぶようになった。