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双海町誌

第一五節 民俗信仰

一 地蔵信仰
 お地蔵様は、正しくは地蔵菩薩又は地蔵尊という。人々の悩み苦しみを除いてくれる慈悲深い仏として中国で信仰を集め、それが日本に伝えられ、貴族社会からやがて庶民にも知られるようになった。日本では、特に、閻魔大王の裁きを受けて地獄で苦しむ死者たちを、お地蔵様が救ってくれるといわれた。「地」という文字が、地神(土地の神様)を連想させることから、諸仏の中でも群を抜いて庶民に親しまれた仏様である。有名な寺の地蔵尊には、はなとり地蔵、子育て地蔵、日切り地蔵などの名前がつけられていることが多い。池之窪のお地蔵様は、戦国時代(一四一六〈応永二十三〉年)に多風呂木の滝山城主久保式部入道道春が、郷土鎮護を祈願して西光寺を建立した際、同時に勧請したものといわれ、この土地を守るということから、土山地蔵と呼ばれるようになった。今でも土山地蔵の左右・後方の三面に積み上げられた浜石の石垣に、その信仰の強さをうかがうことができる。
 中世以来、地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠を持った姿で木像に彫られて寺に安置される一方、石に刻まれてあちこちの路傍にも祭られている。道端の石のお地蔵様に向かって、「観世音、南無仏、与仏有因、与仏有縁仏法僧縁、常楽我浄、朝念観世音、暮念観世音、念念従心起、念念不離心」と一心に唱える素朴な信者の姿を、昔は当たり前のように目にすることができた。
 また、旧道を牛ノ峯にのぽる途中に、かつて「一丁地蔵」「二丁地蔵」と表示があったが、そのように本尊安置所までの距離を示して、坂道をのぽる参詣者を導いたのは、いかにもこの菩薩の慈悲心にふさわしいことといえる。
 地蔵菩薩は、小僧や小児の姿で現れるという説話が伝えられ、子どもと関係づけて信仰されることも多い。そこから妊婦や母親とも関係づけられ、安産や養育について地蔵尊に祈願することもある。賽(お礼参り)の河原で鬼から子どもを守る地蔵菩薩の説話も広く知られており、早世した子どものために石地蔵を立てる習慣や、路傍の地蔵に石ころを供える風習は、いまも残っている。そのほか、旅行の安全、疫病除け、縁結びに至るまで、お地蔵様のご利益と信じられたものは数えきれない。
 地蔵尊の縁日は、毎月二十四日とするのが一般的で、双海地域でもやはりその日である。とりわけ、牛ノ峯の地蔵様の春(四月)と夏(八月)の縁日は、かつては相当なにぎわいを見せ、近隣の土地ばかりか、瀬戸内海の島々から船で参詣に来る人が多かった。池之窪の土山地蔵も有名で、同じく春と夏の祭日には、大勢の参拝者でにぎわった。藤棚のある場所は昔もいまも変わらないが、かつてはこの藤棚の付近に露天がいっぱいに立ち並び、明治のころなら二銭で大きなナシが三つ、一銭でハイカラ飴を食べきれないほど買うことができた。祭りの夜にはお堂で通夜をする信者も少なくなかった。春の縁日には福まきがあり、夏の縁日には盆踊りが行われ、この晩は太鼓とハヤシの音が本村あたりまで聞こえた。現在も八月二十四日には太鼓とハヤシを使った盆踊りが盛大に行われている。
 なお、土山地蔵の「講」に関して、明治四十年に制定された講則の原文を次に示す(講については、第九節を参照)。

二 庚申信仰
 庚申とは、干支の「かのえ(金の兄)さる」のことで、昔は、これに当たる日の夜は講中が寄り合って徹夜をして過ごす「庚申待」という風習があった。中国の民俗宗教である道教の教説によると、庚申の夜には、人が眠っているあいだに体内の虫が天にのぽり、人の罪悪を天帝に告げる。すると天帝はその人を早死にさせるというので、その晩は寝ないで身をつつしむようにしたのが始まりであるとされている。
 日本では鎌倉時代に民間に普及したが、神道や仏教とも融合しており、道教思想が特に流行したというわけではない。また、徹夜といっても、宗教儀式ばかりを朝まで続けるようなことはなく、宴を開くことが中心だったといわれる。近代になってからも、庚申の夜には、家庭では、「きょうは、オコシンさんの日」といって五目めしをつくった。若者たちは意気込んで一か所に集まり、大食会(かけ食い)、カガス(すりばち)転がし、花札などの遊びで眠気をさましながら夜明けを待った。
 こうして徹夜で起きている行事が定着するうちに、庚申の夜には男女がいっしょに寝てはいけない、更にこの日結婚してもいけないという、新たな禁忌が生み出された。
 庚申の神様は、「かのえさる」だけに、猿になぞらえられることがあり、三猿などを石に彫った庚申塚と呼ばれる参詣の場所が各地にある。双海地域にはその種の塚はあまり建てられていないが、旧家では必ず家の中に庚申様を祭っている。庚申様に供える花は、猿に似た形のマサキの花で、俗に「オコシンバナ」といわれた。

三 カマド神信仰
 カマドとクドについては、第八節で、家の中の重要な場所としての意味を述べたが、ここでは民俗信仰の面から、いくつかの点について述べる。
 人間は、原始時代から火を神秘的なものとして恐れ崇めていたが、カマド神信仰という形式が一般に成立したのは、奈良時代の始めごろだといわれる。カマド神は、荒神又は三宝荒神と呼ばれ、燃える火の神であり、激しい性格で崇りをなしやすい神だと信じられていた。日常使う炊事の施設を、「オカマさん」「オクドさん」という呼び名で神格化していたことを思うと、往時の人々が家の火所をどれほど崇拝し恐れていたかが分かる。昔の家では、カマドの近くに神棚をもうけて荒神様をお祭りし、常に青々とした黒松(おん松)を供えるようにしていた。
 カマド神は、第一に家族の守り神として崇拝を受けた。子どもが生まれたとき、ウブノメシを釜の上にのせて祭る風習や、初めての宮参りをするときに、カマドの黒い墨を額につけてお参りする風習があった。風邪でのどを痛めたときも、カマドの墨をのどにつけるとよいといわれ、更には、鶏の脚が立だなくなったら、オカマさんのそばにすわらせておくと治るとまでいわれた。
 ただし、効験ばかりでなく崇りがあることも忘れてはならず、妊婦のいる家では、クドやカマドの修繕をすると、よくないといわれた。また、カマドの上に包丁を置いたり、銭を置いたりすることもいけないこととされた。
 カマド神には、もうひとつ、田の神と結びついた農神としての一面もあった。田植えを始めるとき、早苗をオカマさんに供えて、丈夫に育つように祈り、苗代の水口には、荒神様のお札を木にはさんだものを立てた。食料を加工するのになくてはならない火の神であることから、食料を生産する農業そのものと古くから結びついていたのである。

四 水神信仰、舟玉様・お竜宮様信仰、金比羅参り
 水神は水をつかさどる神で、大規模な水田耕作が発達するのに伴って、その信仰も盛んになった。炊事場や井戸、泉などで常時信仰の対象だったが、田植えどきには、苗代田の水口でことのほか念入りに祭られた。
 漁師の家では、舟玉様とお竜宮様を信仰した。舟玉様の玉はタマシイのタマで、舟の守り神である。お竜宮様は、地方によっては竜神様ともいわれ、海の神様として崇められた。漁民たちは、海上での安全と豊漁を願い、これらの神様を祭って食物や酒を供えた。
 有名な香川の金比羅大権現も海神であり、海で働く者の守護神である。毎年春に、勇ましく幟を立てた漁船による金比羅参りが行われ、豊漁と海上安全を祈った。この出船を見送った者たちは祝宴を開き、お参りの一行が帰ったときも、残りの費用を計算して祝宴を張るのが常であった。また昭和五十年代まで木造船が完成したときも、金比羅参りを行っていた。

五 大久保八十八ヵ所
 昔、遠路を旅する者たちのために、街道や山道の難所に道祖神を祭ったことから、やがて各地の道祖神や大師堂をまわること自体を旅の目的とする風習が生まれた。大久保八十八ヵ所も、そうした旅程のひとつである。
 札うち(参拝)してまわる順路は、正法寺を起点として、その裏山の道を通り、石ノ久保西森、鍋谷から閏住の空に抜けて仏峠を越える。そこから道玄寺、日喰の庵、日喰の浜に出て、富岡の上り口、閏住を過ぎ、夫婦岩、本谷の森時を経て小猿子が八十八力所の終点である。日喰の浜から始める場合は、その逆の順路になる。
 この八十八ヵ所めぐりがいつごろ始まったかについては、はっきりした記録はないが、富岡の入口(六三番の札所)の道祖神に、「文化八年未(ひつじ)」(一八一一年)という文字があり、仏峠の道祖神の灯龍には、古橋念仏講連中が文政十三(一八三〇)年寅に献納した旨が記されている。これらの年代をみると、大久保八十八ヵ所ができたのは、いまから約一九〇年前の江戸後期のことだと考えられる。
 札所には、地蔵像、大師像、観音像、更に馬頭観音が置かれている場合もあり、人間だけでなく牛馬の安全も祈願していたようである。寄進者を記したものの中には、「土州」「阿州」などの地名もみえ、地元だけでなく土佐や阿波まで出向いて、建立のための浄財を募ったのではないかと思われる。個人の名前も記してあるが、姓名が書かれている者もあれば、名だけの者もあり、大部分は当時苗字をもたなかった庶民が寄進したものだと分かる。
 戦前までは、春夏のお大師様の縁日には、多くの善男善女がお上りさん・お下りさんとなって、この八十八ヵ所のお札うちに訪れた。地元に住む人々は、地域全体や近所数軒で、あるいは個人で、それらの参拝者を接待した。正法寺、仏峠、道玄寺、日喰の庵、日喰の浜、閏住などでは、赤飯、うどん、いり豆などでもてなした。西森の庵では、必ずうどんがふるまわれた。この習慣は、札うちをする人に親切にしておけば、やがて自分たちも親切を返されるという考えや、かつて自分も人からもてなしを受けたから、その恩返しをしなければならないという考えから発したものである。お接待を受けた信者は、そのお礼として器にお札を置いて立ち去った。
 戦前までは盛んに行われた大久保八十八ヵ所めぐりも終戦とともに行われなくなり、今では往時の様子を知る人も少なくなってしまった。
 また、上灘地区にもミ二四国八十八ヵ所がある。久保地区から始まり上灘川を下り、灘町五丁目より上流に向かい翠地区全域(柆野まで)に渡り、そして最後は久保地区に戻ってくる。昭和後期に、北川完三郎と大内慶和の両氏によってほぽ所在地が確認されている。
 一九八五(昭和六十)年ころまでは、一部ではあるが下灘・上灘の高齢者教室でも両地区で巡礼を行っていた。

土山地蔵の「講」

土山地蔵の「講」