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双海町誌

第一四節 信仰の旅と道祖神

 昔の旅行といまの旅行とでは、大きく異なる点がいくつもあるが、特に違いが目立つのは、移動手段(交通機関)と旅行の目的である。
 飛行機、電車、自動車はもとより、自転車さえもなかった時代には、旅をする人々は、旅程の大部分にわたって自分の二本の脚に頼るのみであった。ときどきは馬や駕篭(カゴ)に乗ることもあり、行き先によっては船(これが近世まで最大最速の乗り物だった)も利用したが、それは懐に余裕があるときか万一やむを得ない場合であって、昔の人にとって旅とは、つまり歩くことだった。そうして脚を棒のようにして、日が暮れるころにようやくその日の宿に入るのだが、適当な宿屋がない土地では、寒さと危険をおかして野宿をすることも珍しくなかった。閉鎖性の強かった近世の農山村では、見ず知らずの者を泊めてくれる家などは決して多くなかったからである。旅の途中で病気にかかることもあり、追いはぎ、雲助、枕探し(宿屋で寝ている客の枕の下から金を盗む泥棒)の被害にあうこともあり、当時の旅行の難儀さは、現代人の目から見れば痛ましいほどのものであったろう。
 それほど大変な思いをして、昔の人が旅をした目的は、現代と同じく商用や公用も当然あったが、何よりも特徴的なのは、宗教目的の旅行が非常に多かったことである。お伊勢参り、おかげまいりといったことばが、歴史学の用語として教科書にものせられていることを思えば、近世の庶民にとって寺社参拝の旅がどれほど大切だったか推察できる。双海地域からも、お伊勢参りの旅におもむく者は少なくなかったようだが、出かける際には妻子や親兄弟と水盃を交わしたものだという。
 このように、ときには生命の危険さえ覚悟の上で旅をする人々のために、辻、峠、その他の難所に、お地蔵様、観音様、お大師様などを祀った道祖神がっくられ、旅人はそこで前途の安全を祈願していくようになった。やがて、それらの道祖神を拝むこと自体が旅行の目的とされるようにもなり、観音様やお大師様の札所めぐりのような旅をする人も現れた。
 道祖神は、一般に村落の境、峠、通行の不安な場所などにつくられ、村に悪病が侵入するのを防いだり、旅行者の安全を守ったりするものとして信仰された。特に、見晴らしのよい山に祭られた道祖神は、海の水路の安全を守り、また男女の縁結びもつかさどるといわれ、山の石でかたちづくられた寺や、お地蔵様やお大師様を彫刻した石のはこらなど、平地にはない珍しいものが見られた。
 堀切峠・朝が峠・鳥越峠・曳坂・赤石・由並校下の海守地蔵、灘町三丁目の地蔵さん、灘町五丁目の地蔵、そのほか、峠や海岸の危険な場所には、必ずといってよいほど道祖神が祀られている。池之窪の土山地蔵、高岸の牛ノ峯地蔵などは、特に有名である。また、本尊から尾根伝いの一番高いところの岩の上や、日尾野の秋葉山、松尾の壷神山に祀られているのも、すべて道祖神である。
 現在は、道路脇で自動車のあげるほこりを浴び、山の上で祈る人もなく風雨にさらされ、牛乳ビンにさした一本の花さえとだえがちな道祖神たちだが、それらはいまも、昔の人々の信仰の厚さと旅のつらさとを、私たちに伝えようとしている。