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双海町誌

第九節 社会生活

 地域社会の安寧と秩序を保つためには、いろいろな方法や組織があった。治安と消防、福祉活動、衛生活動に関する面もあるが、民俗学的にみると次のようなことがある。

一 組(引き合い)
 ヒキアイといって、組中に変災があったり、家人等が死亡したり、また、家を建てたりする場合は、組中の一戸から一人ずつ出て、コーロク(合力)をする。もっともそのコーロクを受ける家に近い家は主婦も出て、炊事を手伝った。これは今でも存続されている。
 かつて普請をするときは、材木の運搬、材料の運搬、屋根をふく茅の刈取り、瓦運び、棟上げの手伝い、家人の死亡の時の葬式すべての準備等相互扶助をしてきた。この手伝いに故意に参加しない者は、村八分とされて嫌われた。
 コーロクとかテマガイ(手間替)などは、他人に労力を貸すことであり、その受けた労力を返すことをイ返しといった。これらはみな「組」、つまり「引き合い」という組織の中において行われていた。

二 講
 講にはいろいろあった。お地蔵の講・多賀様の講・伊勢講・観音講・庚申講などである。これらは信仰を中心とした戸主の団結であり、相互救済を伴っていた。また、講には簡単な唱えごとがあって、これを皆が一緒に唱えることによって、相互に精神を共通のものにしたのである。最も簡単なものは念仏講の念仏であって、毎年定例日を設けて戸主が集まり、先祖の霊を敬いお経を唱えた。また組中の安全や五穀の豊穣も願った。一方その際、いろいろな相談事をして組中の統一を図った。
 「ナムアミダブツ(南無阿弥陀仏)」と唱えることは、自然と意識の統一ができたのである。特に正月十六日の念仏の口開け、八月十六日の念仏講、十二月十六日の念仏のおさめは盛大にし、現在も継続しているところもある。

三 頼母子講
 普通頼母子は組中のある人間が希望した場合、発起人が世話役となり、隣近所や、また、それに賛成する人々が集まって金を出し合い、経済的な助け合いをしたものである。茅頼母子、牛頼母子など珍しいものもあった。
 頼母子講が開かれるとき、最初に落とした人が宿となり、また、次に落とした人が宿をした。しかし、大きなものになると場所も決まっていた。今でもわずかに存続している。牛頼母子は、ウシを買う時の相互扶助で、「わしが後ろの足一本持つ」とかいって金を出し合っていた。
 茅頼母子とは、葛屋のふき替をするときの諸費用や労力を出し合って相互扶助していた。

四 若者連中
 青年の集まる場所で地区ごとにあった。普通ヤド(宿)又はネヤド(寝宿)といって、子どもあがりから嫁をとるまで青年男子の集まりで、入団式には親が酒一升さげていく習慣があった。この集団には服従というほどの制裁もなく、比較的自由な寄り合いで、皆が夜寄り合って力石や米俵をかついだり、棒おしをしたり、時には俵あみ、縄ない、ムシロ打ちなどもした。特に正月前には夜警もした。ヨマワリといって、拍子木をカチンカチンとたたきながら、二、三人が連れ立って、一軒一軒家を回って火の用心や盗難の用心を注意した。時には、新婚の家前では、カカアの用心などといって、新婦を大切にするよう、新夫に警告した。
 このネヤドで中心になったものは異性の話題で、どんなヨカ嫁をとるかなど、自然の中に学ひとり、人生観・人間性などについてだんだん考えるようになった。
 これらの習慣は、昭和三十年代に姿を消した。

五 道 普 請
 春秋のお祭り前や、お社日前後に道づくりをした。集落のおおかん(大通り)や、労働のための道(農道)等組中の者がよって、一日中共同作業をし、地域の総会行事を催し、後で簡単な飲食会をして世間話に花を咲かせた。今も多くの地区で行われている。