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双海町誌

第一一節 社会教育

一 社会教育の歴史
(1) 明治時代の社会教育
 明治政府は、西洋文化の導入に力を注ぐなか、一般社会人を対象とした教育の在り方には、あまり頓着してこなかった。次の時代を担う若い世代の教育に力を注ぐようになったのは、日露戦争が勃発してからである。
 当時、双海地域の産業は農業が主力をなしており、農村振興を目的として設置していた農友会は、有為な青年を育成するためのクラブ的な会として設置され、指導者育成に力を注ぐようになった。事業内容は、農業研究、風俗矯正、演説講話、討論、遊戯といったものであった。
 農友会は毎月一回、第一日曜日の午前九時から午後二時まで開かれ、一九〇五(明治三十八)年から時局談話会を開催し、前後三二回に及んだ。その内容は、日露戦争の影響を強く受けており、地理(日本・朝鮮・中国・ロシア)、日露関係の歴史、ロシアの侵略主義、日露交渉の顛末、宣戦の詔勅、戦争の模様、国民の心得、農業督励などを学んでいた。
 明治三十七年二月十日をもって日露宣戦詔勅が発布されたが、その前年、小学校に農業補習学校が付設され夜学が始まった。それに付随して女子では正風会が誕生し、講話、裁縫、作法、家政、遊戯といった内容で、毎月一回開催された。しだいに社会教育、家庭教育が本格化し、上灘村でも下灘村でも同様に、学事会、主婦会、青年会、処女会、父兄母姉懇談会、慰老会、同窓会、通俗講話会といった組織が結成された。
 上灘村における社会教育組織は次のとおりであった。

(2) 大正時代の社会教育
 大正後半期には、出向く社会教育へと進展を見せ、対象者の底辺拡大が図られるようになった。幻灯(スライド講話会)というものも登場した。これは学校の訓導(小学校正教員の旧称)が各集落に出張し、秋の夜長を利用して幻灯を鑑賞し、話し合いの素材とするものである。女子にあっては、文部省の指導による自主集合体の処女会を併合して女子青年団が発足した。このように教育界では社会教育が特に急速な発展を遂げるに至った。その根底には夜間教育の魅力があったといえる。当時は老年たちもしだいに活発化して各地域で活動した。
 一九二二(大正十一)年、教育令発布五〇年記念事業の慰労会が催され、数多くの集会がもたれ、社会教育が日増しに盛大になっていった。同志会的な講習会をはじめ青年の一夜講習会や、青年文庫の活用など活発な活動が展開されていった。大正十四年には地方社会教育職員制が定められ、次のような事務が行われた。
 ①図書館及び博物館に関すること。
 ②青少年団体及び処女会に関すること。
 ③成人教育に関すること。
 ④民衆娯楽の改善に関すること。
 ⑤通俗図書認定に関すること。
 ⑥その他社会教育に関すること。
 以上のように社会教育行政機関は、画期的に整備された。

(3) 昭和期(終戦まで)の社会教育
 一九ニ九(昭和四)年七月一日、文部省に社会教育局が創設された。その内容は民主的全人教育の幅広い社会教育の基本姿勢がうかがえるものであった。事務内容は、青少年団体、青年訓練所、実業補習学校、図書館、博物館その他観覧施設、成人教育、社会教化団体、その他の社会教育といったものである。
 昭和五年、婦人団体が連携を図り、一致協力して婦人の教養を高め、家庭教育の振興、家庭生活の改善等に努めた。その後、連合体を組織化した大日本聯合婦人会が全国統一組織になった。翌昭和六年、満州事変が勃発。しだいに団体活動の自由が束縛され、自主活動はできなくなり始めた。更に昭和十二年に日中戦争に突入するや戦時体制が強化され、国勢は破竹の勢いとなった。昭和十六年十二月、太平洋戦争へと拡大することとなり、戦時教育体制が強化されていった。
 昭和十八年になると戦況はしだいに悪化し、青少年団体は再編されて大日本青少年団と改称。大日本連合婦人会、愛国婦人会、大日本国防婦人会の三者も合併して、大日本婦人会に統合された。更にすべての教化団体や文化団体を統合して、大日本教化報国隊が結成された。
 このように終戦直前の社会教育は、戦局の悪化とともに高度国家体制の強化のため、完全に決戦体制に組み込まれるとともに国民精神総動員運動となった。その内容は、消費節約、貯蓄奨励、勤労奉仕、生活改善などである。こうした国民運動が展開され、国民の生活は日増しに厳しくなっていった。その国民運動推進事務局が文部省内社会教育局に置かれ、本来の社会教育活動を担う社会教育局は廃止されて、遂に終戦を迎えることとなった。

(4) 戦後の社会教育
 一九四五(昭和二十)年八月十五日、太平洋戦争は終結した。終戦後の混乱で国民は精神的にも物質的にも大きな打撃を受けるなかで、政治・経済などすべてが連合国の支配下に置かれた。
 九月十五日、日本政府は、社会教育を織り込んだ「新日本建設の教育方針」を発布した。終戦前に廃止となった社会教育局が文部省管轄のもと復活し、国民にとって心の支えとなった。同年十一月、「社会教育振興に関する訓令」とともに「社会教育実施要綱」が制定され、「自発的な自己啓発」「相互教育の重視」を目標課題とする本格的体制ができあがった。
 昭和二十一年、文部次官名による「公民館の設置運営について」の通達がなされ、社会教育の拠点としての公民館への関心、必要性が高められていった。
 昭和二十四年六月十日、社会教育法が制定・公布された。制定から一〇年後の昭和三十四年、社会教育法の抜本的改正が行われた。
 社会教育は、人づくりを理念とした「自主性」「自発性」に基づいた責任ある行動のとれる、しかも主体性のある人づくりである。自己啓発では、一九七一(昭和四十六)年、社会教育審議会答申が出され、「急激な社会構造の変化に対応する社会教育のあり方」が問われる内容であった。一九八七(昭和六十二)年、臨時教育課程審議会最終答申では、自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の指導を徹底し、個性を生かす教育の充実に努めなければならないとした。
 ①個性重視の原則
 ②生涯学習社会への移行
 ③変化への対応(国際社会への貢献、情報社会への対応)
 答申を踏まえ、本町では仲間と健康と生きがいをテーマとする生涯教育を、いかに住民総参加で推進するかが課題であった。戦後間もなく順次発足し、今もなお活躍する自治公民館は、住民の連帯を育て、住民意識の向上に貢献してきた。学歴社会から学習社会へと移り変わるなか、住民は自発的参加という公民館精神を発揮して、地域の課題を行政ともども連携し解決に当たるなど、心の通いあう温かいふるさとづくりを推進している。


二 社会教育団体
(1) 双海文化協会
 双海文化協会は知識の向上、技術の習得と合わせて会員相互の親睦を深めるため、様々な活動を行っている。各部独自の定例的な会合や学習はもちろんのこと、毎年十一月の文化の総集編である双海町文化祭には、一年間の学習の成果を展示、発表している。また、六月には芸能発表大会を開催し、年に一度は中央から講師を招聘しての文化講演にも取り組んでいる。
 一九八三(昭和五十八)年三月に双海文化協会が発足以来、梶原忠弘が会長に選任され現在に至っている。
(2) 双海町体育協会
 双海町体育協会は、一九八二(昭和五十七)年三月に結成され、体育スポーツ活動の普及・実践活動を通じて町民の体力と競技力の向上に貢献している。本町には次の八連盟・二一団体が加盟している。
 歴代会長は次のとおりである。
(3) 青 年 団
 終戦後、県下各町村では、青年団の再編成・再組織化か始められた。本県においては、一九四七(昭和二十二)年の秋に愛媛県連合青年団が誕生した。時期を同じくして、双海地域でも上灘町、下灘村で青年団が産声を上げ、昭和二十三年ごろには組織化されていた。各集落ごとに青年団支部が置かれ、支部長や役員が統轄する形であった。昭和二十五年には、運営面において、地域青年団がその機能を十分に発揮するために専門部(総務・社会・厚生・文化・家政)を新設し、末端までの浸透を図った。
 昭和二十五年から三十年にかけての本町の青年団は、上灘・下灘合わせて約七〇〇人の団員を有し、町村政にも意見を反映させるなど、まさに全盛の時代であった。
 しかし、社会生活が安定するにしたがってそれまで現れなかった諸問題が表面化していった。また、多くの青年が都会に流出していった。
 青年団は、昭和三十年をピークに、しだいに下降線をたどり始めた。
 町村合併促進法(昭和二十八年十月施行)によって全国いたるところで合併が進んだ。本町においても、一九五五(昭和三十)年、上灘・下灘が合併して双海町となり、双海町連合青年団が発足した。しかしそれは、上灘・下灘両青年団の格差と対立意識のために、連絡調整を主体とした形式的なものであった。
 またこのころから、団員と幹部とのあいだに遊離状態がみられるようになった。昭和三十二年から昭和三十五年ごろには、「役員だけの団」とか「各種会合の出席が悪い」とかの中傷が飛び交い、青年団の存立にかかわるような問題も出はじめたのである。しかし指導者たちは、それにもめげずに指導者の養成に力を入れたり、共同学習・自主財源の確立などに真剣に取り組み、団活動を魅力的なものにするための努力を惜しまなかった。
 一方、昭和三十七年、県においては、政治活動を全面的に推進して青年の理想とする社会をつくることこそが青年団活動の本質であるとする考え方を掲げる役員と、青年団活動はあくまでも教育の場であり政治活動はすべきでないという役員の二つの意見が対立した。このため伊予郡をはじめとする一一郡市町村は、後者の意見を指示して県連青を脱退し、協議会を結成した。しかし、問題の深刻さと協議会内部の課題及び会員の自覚が原因となって協議会は伸び悩み、県下全体のまとまりまでには至らなかった。
 ところが昭和三十八年に入って県連青の政治偏向がますます強くなると、再び全県的青年団編成の要望が強まった。
 結局、昭和三十九年九月二十三日、一万八〇〇〇人の団員からなる愛媛県青年団連合会が誕生したのである。ちなみに、社会教育団体の領域を逸脱した県連青は、次々と傘下の青年が去って崩壊の一途をたどっていった。
 上灘青年団と下灘青年団の歴代団長は次のとおりである。
 一九六四(昭和三十九)年、双海町が誕生してから九年目にして、戦前戦後の旧下灘・上灘それぞれの長い歴史を受け継いできた青年団に合併の機運が高まった。たび重なる役員会が開かれ、臨時総会において上灘・下灘青年団の合併を協議した結果、双海町青年団として発足することが議決された。
 青年農業後継者が台頭したのもこのころであった。農業青年は、青年団と協調しつつも一線を画し、青年団や青年学級にも所属して活動した。県下でもユニークな町立双海高等女学院があったことから、他町村に比べて女性の参加が圧倒的に多かったことも、青年団活動活発化の大きな追い風となっていた。
 その後、自動車社会の到来により青年団体活動は徐々に広域化し、町内はもとより郡内へと広がっていった。盆踊り大会への参加、郡内青年団との交流会、スポーツ大会、文化活動も活発であった。特筆すべきは、双海町議会議員選挙の際に、個人演説会を開いたり、新生活動の一環として県下に先駆けて洋服による清楚な成人式をスタートさせたりした活動であろう。また、一九七四(昭和四十九)年に行った演劇集団新制作座の「泥かぶら」公演や、昭和五十年に本尊山中腹にタイムカプセルを埋蔵した活動などは、団員の団結を深め、青年団活動が町を活性化させていた出来事でもあった。しかし、青年団活動は、一九八三(昭和五十八)年から今日まで、日本全国の青年団がそうであるように、停滞期若しくは下降期を迎えている。特に、一九九五(平成七)年以降はその傾向が顕著である。団員にしても、役場職員が大半を占めている。このことは、時代背景から考察して、仕方がないところかもしれない。若者のほとんどが職場を松山市などの都市部に有してるため、青年団活動だけにとどまらず、地元とのつながりがほとんどない。一方、双海町青年団は魅力的な活動に乏しいことも現実である。ほたる祭り・夏祭りなどの行政主導のイベントに追随することが活動のメインになっている。わずかながら、夏祭りに行うビーチバレーボール大会とプラットホームコンサートだけが、青年の青年による青年のための活動として定着している。
 双海町青年団の歴代団長は次のとおりである。

(4) 婦 人 会
 戦後の復興を目的に、地域や家庭を守るために全国的に再発足したのが婦人会であった。かつては、全集落に組織された最大の地域のボランティア団体として地域に貢献していた。
 ア 双海町連合婦人会
 上灘・下灘両婦人会は、長年地域婦人会として個々に活動を展開してきた。双海町連合婦人会は、両婦人会の連絡調整をはじめ他団体や行政との連携を密にするために、一九六六(昭和四十一)年に結成された。昭和四十九年度の資料によると、上灘婦人会五三〇人・下灘婦人会三八八人・連合婦人会九一八人と記録されているから、当時から上灘・下灘両婦人会の全員が本会員だったことが分かる。
 本会は、独自の事業は実施しておらず、各種事業への参加を行っている。
 イ 上灘婦人会
 一九四八(昭和二十三)年に発足。規約には、「会員相互の親睦を図り、実践活動を通して知性と教養を高め、地域の問題解決を図り、郷土の発展と文化の向上、社会福祉及び健康の増進に寄与することを目的とする」とある。しかし、戦後から高度経済成長期を経て現代の多様化した社会情勢へと様々に時代が変革していくなかで、人々の意識は変わっていった。現在では三集落のみの加入となっている。
 ウ 下灘婦人会
 昭和三十年に発足し、長年地域に根ざした活動を展開してきた。また、本会には姑で組織する「あけぽの会」があり、個別に活動を行っていた。しかし、平成に入って「あけぽの会」が無くなり、婦人会自体も集落ごとの脱会や女性団体の細分化などにより、会員や支部が激減していった。平成十四年度から休会し、双海町文化祭バザーのみ活動を行っている。

(5) ふたみ女性の集い
 町内にある各種の女性団体(一六団体)が集まり、一九九三(平成五)年四月に組織された。活動方針は、女性の観点から地域づくりを促進することを掲げている。結成当初の取り組みはごみ問題で、家庭から出るごみに着目したが、現在は身近な環境問題をテーマに活動を展開している。また、各団体長で組織された役員会で、様々な活動を検討している。本会の活動が町内全域に広がり、定着することを願っている。

(6) 双海太鼓の会「夢走太鼓」
社会とのつながりが希薄になりがちな高校生を対象に、社会参加を促し、健全育成を図ることを目的として一九八九(平成元)年二月に結成された。当初は下灘小学校で「下灘太鼓」を経験した者を中心に、高校生一八人・指導者三人・役員二人で開始された。その後、会員の減少により存続を危ぶまれることもあったが、発足当時に参加していた青年が指導者兼メンバーとして会を統率し、少数ではあるが高校生や中学生も参加するようになり、現在に至っている。月二回の練習を重ねながら、仲間づくりと地域のつながりを大切にして、頑張っている。
 毎年、県内各地より太鼓の団体を招待して、本夢走太鼓や「下灘太鼓」との競演によって「双海町和太鼓のつどい」を開催している。今年で一五回目を開催した。

上灘村における社会教育組織

上灘村における社会教育組織


双海文化協会

双海文化協会


双海町体育協会

双海町体育協会


歴代体育協会長

歴代体育協会長


上灘青年団

上灘青年団


下灘青年団

下灘青年団


双海町青年団

双海町青年団


婦人会歴代会長名 1

婦人会歴代会長名 1


婦人会歴代会長名 2

婦人会歴代会長名 2


ふたみ女性の集い

ふたみ女性の集い