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双海町誌

第三節 江戸時代の教育

一 江戸中期までの教育
 江戸中期までにおいては、本町の住民の大部分が農業・漁業を営んでいたため、学問は無用のものとされ、山伏・豪農らの子弟を除いて、ほとんどの子どもたちが無学で文字も読めなかった。
 それでも、読み書きを志すものもいて、彼らは、盛砂や囲炉裏の灰をかきならして、「いろは」等の文字を学んだという。
 算法については、商家ではそろばんが幅を利かせていたが、ほとんどの者が暗算が主であった。高額の金銭を複数の人に分配するときには、まず一定額を手渡し、残金を小銭に換えてから再び一定額を分配していたという。また、それでも等分しきれない場合は、一文銭を伏せて表か裏かのいいあてをしたり、駄菓子を買って分けあったという。

二 寺子屋教育
 江戸時代も後期になると、各所に寺子屋が生まれ、学問を志す者も増えていった。寺子屋という言葉は、「寺子」と「屋」との合成語である。寺子はそこで学ぶ子どものことで、屋は寺子の通う家という意味を持っている。愛媛県教育史によると、寺子屋を開設した動機は次の七つに大別できるという。
 ① 藩の奨励に基づくもの
 ② 師匠の教育愛の発露から開設したもの
 ③ 保護者が子弟教育の必要上、師匠を招請して開設したもの
 ④ 保護者の強い要望により、開設したもの
 ⑤ 師匠が衣食の資を得んがために開設したもの
 ⑥ 布教のひとつとして開設したもの
 ⑦ 生活に余裕あり、かつ老後の楽しみとして開設したもの
 これらのなかでも、②の「師匠の教育愛の発露から開設したもの」が、相当数を占めていた。
 次に、伊予郡・市における寺子屋の開設状況、分布図及び規模の状況を示す。
(1) 寺子屋の様子
 寺子屋の授業は個別指導で、進度も程度も極めて複雑であった。授業はたいてい昼間行われ、夜学は農山村に多くみられた。時間は、土地の様子や季節によって異なるが、午前のみ、あるいは午後のみというのは少ない。授業は午前八時から午後四時までが最も多く、教科は手習(習字)、素読、それにそろばんの初歩であった。
 師匠はほとんど一人で、寺子は男女共学、師匠の前に机を並べ、座席を分けずに学ぶのが普通であった。登校すれば各自机を並べ、本を出し、稽古を始める。下校するときは、これを整頓して一隅に積み、掃除をして帰った。
(2) 寺子屋の授業
 教育のねらいは、親への孝行をはじめ、兄弟仲よく神仏を崇拝し、師匠に従いよく勉強することなどが、どの寺子屋でも示されていたようである。賞としては、四書・五経等の書物が賞賜されたり、半紙の類いが贈られたりした。罰には軽いものから「しっぺい」「掃除」「無言静座」「留置」とあり、線香を持って立たせたり、水を盛った茶碗を持たせ、こぽさぬように直立不動をさせるというのもあったようだ。更にお灸をすえる「灸点」や「縄縛」「食止」「机馬」などの罰もあった。
 授業はほとんどが個別指導で行われ、手習が主であった。師匠が教室の一隅か別室で手本を書き、寺子一人ひとりに与える。中には草紙を用いず、浅い箱に砂を入れ、ここに文字を記す「砂書」で習わせる所もあった。一日に一、二回、師匠が点検して手直しした。その際、一〇〇〇点法を用いて手習を奨励したようである。
 一〇〇〇点法とは、できばえに応じて二〇点、三〇点と点を与え、それが一000点に達すると次の段階に進むことができる。
たとえば四字習う者は六字に、六字の者は八字を習う仕組みで、これを「下り換え」といった。紙一枚に習う字数が三〇字に達すると細字を習うことができた。細字を始めて三、四日目に清書して次の文字に移る。これを「上げ字」といった。成績の良い者は、近くの寺院や神社に奉納することもあった。
 素読の指導は、初めは手本の文字を読みながら書かせた。また、そろばんを習うことができる寺子屋はごく少数で、個別指導によった。
(3) 寺子屋の年齢と男女の就学状況
 入学年齢は定められてはおらず、おおむね六歳から一五歳までの間に行われたので七歳と八歳が最も多かった。就学比は農村では女子が低く、町屋の寺子屋になるほど女子の就学率は高くなった。授業は四季を通じて行われたが、農村では農業の閑な冬から春にかけて三、四か月だけ開かれ、耕作の忙しいときは休んだ。入学は正月が多く、正月上旬の寺始めと十二月下旬の稽古仕舞いとには、多くの寺子屋では机文庫を持参したり、持ち帰ったりした。
(4) 寺子屋の行事と謝礼
 寺子屋の年中行事としては、五節句、年末年始の祝儀、天神講、文殊講、七夕祭などが行われた。
 また遊びは、すもう、手まり、独楽、鬼事、たこあげ、羽根つき、お手玉、竹馬、水泳、かくれんぽ、ねんがり、木登り、おはじき、輪回し、墨塗り、戦争遊び、摘み草などがあった。
 師匠に払う謝礼は、物品が主であり、米を収めるところが多かった。年に集計すると、当時の一斗から三斗ぐらいで、お金なら五〇銭から四円くらいのようである。個人の額は一定でなく、寺子の保護者の貧富、身分などによって違っていた。


郡・市内寺小屋の開設状況

郡・市内寺小屋の開設状況


郡市内の寺小屋分布図

郡市内の寺小屋分布図


郡・市内の寺小屋の規模

郡・市内の寺小屋の規模


双海地域内の寺小屋一覧

双海地域内の寺小屋一覧