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双海町誌

第二節 教育行政

一 概   要
(1) 明治期の教育行政の推移
 明治期の地方教育行政は、府県を単位として機能する総合行政のかたちをとり、特に上からの管理監督権を重視した視学制度の充実に力をいれるものであった。
 しかし、明治期においてこのような教育政策を政府が選択したことは、当時の日本の国情を考えればやむをえないことであったばかりか、むしろ必要なことでもあった。我が国の教育を、ともかくもあのような短期間のうちに、しかもすべての地方において足並みをそろえて進歩させたものは、この中央集権的教育行政だったのである。

明治初年の教育行政の位置づけ
 学制に関する地方教育行政は、一般行政とは別個に行われた。
明治期の教育行政の特徴
・「教育二関スル勅語」
 一八九〇(明治二十三)年に発布され、国粋的思想運動の展開をうながした。
・中央集権化
 皇道思想、国体思想によって強力に統一された。

(2) 大正期の教育行政の推移
 第一次世界大戦で米英仏等の連合国側が勝利を得たことで、大戦後の世界の列強諸国においては、戦勝国が標榜する民主主義を一層推進することが、時代の趨勢となった。我が国でも民主主義思想の移入が活発に行われ、様々な分野で民主化への希求がみられるようになった。
 こうした動きは、大正期の教育施策にも当然影響を及ぼしている。ただし、その民主化というのは、元来が戦勝国の立場による民主化であって、そこに公平性や徹底性を期待することはできなかった。そのため、当時残存していた二重学校制度や、学校教育の機会に関する男女間の不公平などの問題は、十分に論議されることがなかったのである。
 しかし、そうした差別と不徹底さを残しながらも、学校教育の機会を前代に比べていっそう多くの国民に提供したことや、社会教育の振興を図ったことなどは、当時の教育行政が民主化の理念を重んじていたことの現れだといえる。

 学校教育の拡充
 学校教育の全国的な普及と拡充によって、向学心と進学意欲も高まり、都市居住者や富裕層の子弟だけでなく、地方の町村に住む児童・生徒たちにも、中等学校、高等学校の受験を志す者が増えた。

 社会教育の振興
 社会教育は学校教育に比べて発展がおくれていたが、第一次世界大戦後、欧米諸国の影響によって関心が高まった。青年団や女子青年団が設立され、一九二五(大正十四)年には、文部省に社会教育課が置かれ、一般社会人のための通俗教育を推進した。

 思想問題
 高等教育の課程にある学生たちには、思想問題に関していろいろの指示や制限があった。町村部においては目立った問題はなかった。


(3) 昭和期の教育行政の推移
昭和前期の教育行政
 昭和初期の学校教育では、当時の国策にしたがい、軍事国家体制を支えるための教育施策が講じられるようになった。
 太平洋戦争中は、多数の軍需要員を確保するために、学生・生徒に対して、卒業期の繰り上げ、修業年限の短縮、集団勤労作業の実施など、非常時に即応した措置がとられた。戦争後半には学校報国隊が結成され、一九四四(昭和十九)年には学徒勤労令の公布があり、昭和二十年には決戦教育措置要綱が定められた。戦局の悪化に伴って、学徒出陣や学童疎開などのために従来の授業を行えなくなる事態も生じ、更に物資の不足という難題も加わり、多くの学校で教育の適正な実施が困難になった。そして、昭和二十年五月二十二日に戦時教育令が公布され、ついに我が国の正常な学校教育の運営は停止することになった。
 戦時体制下でのこうした一連の教育施策は、一八七二(明治五)年の学制発布以来百三十余年の歴史の中で、前後に類をみない非常手段の連続だったといえる。これらを顧みれば、近代国家が国策として戦争を遂行するとき、その一般施政上の方針が青少年教育の施策にどれほど強い影響を与えるかを、知ることができる。


戦時体制下の学校教育の概況
 昭和十二年度
・九月二十日に北支事変が支那事変と改称されたことに伴い、挙国一致、尽忠報国、堅忍持久を目標として国民精神総動員の体制下に入り、小学校でも各種の訓練等が開始される。
  非常時訓練の実施
  早朝神社参拝の実施
  事変の意義や経過、戦況、戦時美談などの訓話
  国防献金と慰問袋作成
  古金など献納物資の収集
  毎月二十日を慰問文発送の日と定める。
  出征兵士の遺家族を訪問
  労力奉仕
・国民精神総動員強調週間が制定される。
  十月十三日…強調式(午前六時三十分より)
  十月十四日…出征兵士感謝日
  十月十五日…非常経済日、勤労報国日
  十月十六日…銃後援護日
  十月十七、十八日…神社参拝
  十月十九日…心身鍛練日(男女青年団も合同で運動会を開催し、出征兵士遺家族を招待)

 昭和十三年度
・尋常四年から珠算が必須科目となる(そろばんの四つ玉使用)
校内生活指導週間が制定される。
・水泳、登山、神社参拝、遺家族慰問、労力奉仕、道路修繕奉仕作業、分団別集会、優良分団表彰などの行事が行われる。
・八〇億円国民貯蓄運動に学校も参加。
・職員は貯蓄組合をつくり、毎月一定額を郵便貯金。児童は毎月十日の貯金日に一〇銭以上を貯金。
・支那事変一周年事業の挙行(七月七日)
  黙祷(正午)、記念式、神社参拝、戦死者の墓参。
・靖国神社臨時大祭行事。
  四月二十六日午前一〇時、天皇陛下御参拝の時刻にあわせて黙祷。続いて訓話、墓参。十月十九日も同様。
・義士記念行事(十二月十四日)
  神社参拝、義士精神の生活化を図る。
・勤労報国運動の実施
  道路の補修作業を年三回行う。

 昭和十四年度
・この年の十一月一日から毎月一日を興亜奉公日と定め、当日は早朝に神社を参拝し、出征兵士の苦労をしのび銃後の国民生活の
完璧を期すことを誓うことになった。
・青年学校が義務制とされる。

 昭和十五年度
・国民学校令施行への準備
  国民学校令が学校長に対しては七月二十八日から二〇日間、 首席訓導には一月十九日から二〇日間、施行準備のための受講が義務づけられた。
・新体制下での青年団が創立される。
  一月、文部大臣を団長とする大日本青少年団が結成され、三月には愛媛県で知事を団長とする愛媛県青少年団と、県内各町村の首長を団長とする町村青少年団が結成された。同時に、校長を団長とする少年団もつくられ、尋常三年以上が団員となった。
・食糧飼料増産運動に生徒が参加する。
  青年学校と協同でサツマイモを栽培し、また、アルコールの原料としてドングリの収集運動にも参加する。
  繊維の不足のため、桑の皮・梶の木の皮・ハズの皮を剥ぎ、繊維取りに参加した。
・全校鍛練運動が行われる。
  毎日二〇~三〇分間の体操、徒歩、駆け足などを実行し、団体行進の成績が向上した。
・学校で生活物資が配給される(児童用ゴム靴など)。
 小学校教員の俸給と転任旅費が県費で支給されることになる。

 昭和十六年度
・国民学校令が施行される。
  四月一日をもって校名改称。尋常科を初等科と改称。
・興亜奉公日が廃止され大詔奉戴日が制定される。
  この年一月八日から興亜奉公日を廃止。毎月八日を大詔奉戴日と定め、神社参拝や廃品回収などを行うことになる。
・食糧増産運動に生徒が参加する。
  生徒の農繁休業が通算一五日に増加し、少年団は古鉄などの収集運動に参加。

 昭和十七年度
・体育の重視が図られる。
  厳寒期をのぞき裸体操を実施するほか、毎週土曜日一時限に歩行訓練、更に毎月一回大歩行訓練が行われた。
・理科教育の徹底が図られる。
・登校訓練が実施される。

 昭和十八年度
・学校でサツマイモを栽培する。
・その他の耕作地でもサツマイモの大増産運動に協力する。

 昭和十九年度
・理数科と体練科の重視が図られる。
  県及び伊予郡会で、理数科と体練科に重点をおく方針を定め、理数科教育の研究会や体練科査閲(視学、体育指導
主事などによる授業視察)を行った。
・学童疎開を受け入れる。
  都市の児童が、町内に疎開。

戦後の教育行政
 終戦後、占領統治下の日本では、社会のあらゆる分野にわたって、体制、制度、人心の刷新が図られた。教育の分野においても、戦前戦中の国体思想から解放されて、真に民主的な制度の確立が急がれることになった。
 こうした動きのなかで、先に述べた大正期の教育民主化施策ではとり残されていた諸課題や教育行政の地方分権化、二重学校体制の撤廃、奨学制度の整備、男女の教育の機会均等化などが、相次いで実行に移された。また、教育規定の法律主義の採用、文部省の改組、教育委員会制度の成立、六・三・三・四制の実施など、戦前の体制化では思いもよらなかった様々な改革が実現し、我が国の教育制度は、ここに初めて近代民主国家にふさわしい形を整えたのである。
 本町の教育行政は、明治初年以来百三十余年にわたる時代の変転の中で、公教育の普及、国運の発展、有為の人材の育成、民主主義の確立、人権の尊重など多くの課題に取り組み、国と地域社会との要望に応えるよう努めてきた。その間いくっかのつまづきもあったが、それらはむしろ後代への貴重ないましめとなって、未来の発展に資することを期待しなければならない。国家の繁栄、国民の幸福、そして人類の理想のために貢献する教育行政を実現するために、我々とその後継者によって、今後も一層の努力が続けられるであろう。


二 教育委員会
概   要
 一九四八(昭和二十三)年、法律第一七〇号をもって教育委員会法が公布された。その第一条は、「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきである」という、立法に当たっての理念を述べて、「教育委員会を設け、教育本来の目的を達成する」ことを宣一言し、昭和二十三年十一月一日に教育委員会が発足した。また、同法の第七〇条で、昭和二十七年十一月一日までにすべての市町村が教育委員会を設置することを命じた。
 しかし、この法律は実際の面においては、従来都道府県市町村がもっていた教育行政権が教育委員会に移譲されることをも意味していた。自治体側がこれに反発したのは当然で、この法律の公布以来、改正あるいは施行延期を求める運動が、各地で起こった。
 更に、当時地方教育行政に大きな影響力をもっていた日教組も、平和教育と教育の民主化を訴えるなかで、市町村教育委員会不要論を主張した。
 これら各方面からの反発を受けて、昭和二十七年五月、政府は同年十月を期限に実施するよう定められていた教育委員の選挙を、翌二十八年十月五日期限に延期する改正法案を国会に提出した。この法案は参院で可決されたが衆院で否決され、次の国会で再提出が図られたが、抜き打ち解散など予期しない混乱のため、ついに成立することがなかった。
 以上の曲折を経て、市町村教育委員の選挙は、結局当初の予定どおり昭和二十七年十月五日に全国で実施され、我が国教育行政史上初めての公選教育委員が誕生した(上灘、下灘でも、同年十一月一日をもって教育委員会が発足した)。ただし、五名の委員のうち一名は議会議員が、また教育長は町村役場の助役が兼務することになっており、自治体側は教育行政権を全面的に委員会に譲り渡したわけではなかったのである。
 こうして教育委員会が設置されてからも、全国の市長会と町村長会は、首長の一体的行政権を確保し、また、市町村教育行政の自主性を保持することを目指して、地方教育委員会の権限縮小運動を続けた。更に、実際の学校教育の現場においても、依然として日教組などの団体によって、教育委員会不要論が叫ばれていた。その結果、従来の教育委員公選制は、一九五六(昭和三十一)年十月に改正された。以後、教育委員の公選制を廃止し、市長村議会の承認を得て市町村長が任命することとなった。市町村教育委員会教育長は都道府県教育委員会が承認を与えることとなった。更に、教員の任命は、市町村教育委員会の内申をもとに都道府県の教育委員会が行うこととなった。
 現在、市町村教育委員は、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命し、教育長は教育委員である者のうちから教育委員会が任命することとなっている。


歴代教育委員長

歴代教育委員長


歴代教育長

歴代教育長


歴代教育委員

歴代教育委員