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双海町誌

第四節 まつり・イベント

一 初春水仙花祭り
 毎年一月第三日曜日、双海町観光協会とふたみ花の会の主催による「初春水仙花祭り」が、ふたみシーサイド公園で開催されている。
 二〇〇二(平成十四)年の祭りでは、ふたみ花の会(戸田富美子会長、会員四一人)が丹精込めて栽培したスイセンの切り花と約六〇〇鉢が展示即売された。また、この日のために用意された一日限定一〇〇個の水仙弁当は両日とも午前中に完売、水仙まんじゅうも五五〇個を売り切った。ほかにも、上灘漁業婦人部はよもくれ汁を、久保地区の穂樽の里特産加工場はイチゴとイチゴジャム、手づくりコンニャクを実演販売し、多彩な出店は多くの観光客を集めてにぎわった。
 ふたみ花の会は花の愛好家の集まりで、「地域を美しく!」を合い言葉に、地域の美化活動を行っている。その一環として国道沿いの緑地帯に花を植えていたが、金山泰盛からスイセンの球根を譲り受け、休耕田を借りては場をつくり栽培。毎年六月中旬にスイセン畑草取り、八月下旬にスイセン畑球根掘り、九月上旬に水仙祭り用の鉢植え作業、十一月下旬にえひめ産業文化祭りに参加して切り花を販売、そして一月上旬には初春水仙花祭りを主催するなど、活発な活動を行っている。
 一九九七(平成九)年の第一回開催以来、双海の初春の風物詩としてすっかり定着した初春水仙花祭りは、毎年、一足早い春を探しに来る人々の目を楽しませている。

二 閏住地区の菜の花祭り
 一九九三(平成五)年の第一回開催以来、毎年三月上旬に、閏住公民館の行事として、「閏住地区の菜の花祭り」が住民総出で行われている。国道三七八号「夕やけこやけライン」沿いのJR予讃線斜面に咲き誇る菜の花を愛でに、多くの花見客が訪れる。
 二〇〇二(平成十四)年の祭りでは、つきたての杵つき餅、あめ湯、野菜、果物、手づくりコンニャクなどの特産品やアイスクリームなどが販売され、見物客は三三五五買い求めていた。
 また、二〇〇三(平成十五)年には、同日開催となったしおかぜウォークなのはな大会の参加者への接待も行われ、午後には、地区住民が丹精込めて世話した満開の菜の花の前で懇親会が行われた。
 まばゆいばかりに春の陽に照り映える菜の花は、伊予路の春の観光スポットとして注目を集めている。

三 しおかぜウォークなのはな大会
 二〇〇〇(平成十二)年三月二十六日、五〇〇人を超える参加者を集めて、第一回「しおかぜウォークなのはな大会」が開催された。本町の上灘駅から長浜町の長浜大橋(赤橋)までの約一七キロのコースを、参加者たちは春風を体いっぱいに受けながら、思い思いに歩いた。
 ウォークに合わせて「なのはなトロッコ列車」も運行。また、本町の閏住・長浜町の今坊では、地区住民のもてなしを受け、疲れをいやした。
 その後も毎年三月に開催され、二〇〇三(平成十五)年からは、閏住地区の菜の花祭りと同日開催となった。ウォーク参加者が閏住地区にさしかかると、杵の音に誘われて飛び入りで餅つきをする若い女性の姿が見られるなど、なごやかな交流の輪が広がった。

四 「ふるさといきものの里」ほたる祭り
 一九八七(昭和六十二)年六月六日、まちづくりフォーラム21の主催により、第一回「ほたる祭り」が開催された。これは、十進会(安田辰雄会長、会員一〇名)がかねてから取り組んでいたホタルの養殖が成功し、上灘川にホタルの姿がよみがえったことを祝い、その成果を広く町内外に見てもらおうと行われたものであった。
 主会場となった翠小学校の校庭には、まちづくり青年会議などが開いた手づくりクッキーや農水産物の出店が並び、漁業経営者の即売コーナーでは、タイやカワハギの泳ぐ姿も見られた。大好評だった三島公民館のそうめん流しのほか、アトラクションとして、文化協会のカラオケ大会や、餅まき、かかし踊りの披露なども行われ、つめかけた約一二〇〇人の人々で、会場は大にぎわいだった。
 上灘川の岸辺に設けられたお茶席、短歌会場にも多くの人が訪れ、飛び交うホタルを目の前にして、お茶を味わい、歌を詠むなど、静かなひとときを楽しんでいた。
 また、夕闇のなか、岡地区までの往復ニキロで、ホタルの光を眺めながらのちょうちん行列も行われ、フィナーレではちょうちんを片手に輪になって、「ホタルこい」を合唱。歌い終わるとともに照明が消され、ドラマチックに祭りは幕を閉じた。
 第一回の成功以来、ほたる祭りは毎年恒例の行事となったが、第三回となった一九八九(平成元)年に、翠地区は、環境庁が全国一一九か所に指定した「ふるさといきものの里」のひとつに選定されたことから、それを記念して「いきものの里」ほたる祭りと名称を変更した。
 この年は、毎年おなじみのほたる市や鼓笛パレード、福まきのほか、記念事業として、畳一畳分もある大きな紙芝居や、影絵「おきよ池物語とほたる」も上演された。また、ホタルを守るための「ほたる宣言」が行われ、ホタル保存の願いを記したメッセージつきの風船が夜空に飛ばされた。
 その後、名称はいく度か変更されたが、一九九四(平成六)年の第九回以降は「ふるさといきものの里」ほたる祭りという名称にほぽ定着し、毎年、神秘的なホタルの光に誘われ、大盛況のうちに開催されている。

五 双海の海開き
 一九八〇(昭和五十五)年七月十二日、灘町海水浴場に約二〇〇人の参加者を集めて、初の「双海の海開き」が盛大に行われた。
 これは、伊予灘屈指の海水浴場だった長浜町沖浦海水浴場が、漁港整備工事のため閉鎖となったことを受け、灘町をはじめ、きれいな海が売り物の本町の海水浴場に、近郷の海水浴客を積極的に誘致しようと催されたものであった。シーズン中の無事故と安全、繁栄を願って神官による神事が行われ、観光協会会長、町議会副議長、児童代表らによってテープがカットされた。
 また、双海の海を宣伝する観光ポスターも完成し、近隣の市町村や駅に掲示された。このポスターは、前年に再発足した双海町観光協会が製作したもので、灘町海水浴場の美しい風景に、砂浜で魚をもってたわむれる子どもたちの姿をあしらい、海の中に 「灘」の文字が配されている。
 海開きは、本格的な海水浴シーズンの到来を知らせる行事として、その後も昭和五十七年、五十八年、六十二年、平成二年…と続けられ、三年ぶりの開催となった一九九五(平成七)年七月二日の海開きでは、源平合戦の故事にちなみ、「那須与一復活」と銘打って、ふたみ「日本の弓」フェスティバルが行われた。あいにくの悪天候ではあったが、松山工業高等学校弓道部の生徒が射た矢はみごとに扇に命中、会場から惜しみない拍手が送られた。
 また、一九九八(平成十)年六月ニナ八日にふたみシーサイド公園ビーチで行われた海開きでは、恋人岬のモニュメントの除幕式が行われた。海をバックにした勇壮な双海夢走太鼓の演奏披露、青年団有志によるはんぎり舟競争も行われ、海開きを盛り上げた。

六 夕焼け音楽祭FUTAMIミュージックフェスティバル
 一九九五(平成七)年八月六日、ふたみの夏祭りの行事のひとつとして、第一回「夕焼け音楽祭FUTAMIミュージックフェスティバル」が、ふたみシーサイド公園イベント広場で開催された。県内各地から応募した二九グループのうち、第一次選考を通過した一一グループが参加、優勝者に与えられる「夕焼けプラットホームコンサート」への出場権を目指し、熱演が繰り広げられた。
 翌年からは独立の行事となり、第三回となった一九九七(平成九)年からは、毎年八月十四日の開催となった。
 一九九八(平成十)年には前夜祭として「我楽食多市」も行われ、ふだんは静かな商店街も活気にあふれた。また、この年から会場もふたみシーサイド公園恋人岬に移され、出場者は刻々と移りゆく七色の夕空をバックに個性豊かな曲を披露、観衆を魅了した。

七 ふたみの夏祭り
 一九七七(昭和五十二)年八月六日、上灘灘町海岸周辺で第一回「ふたみの夏祭り」が行われ、三〇〇〇人の人出でにぎわった。
 祭りは夕刻、由並小学校の元気あふれる鼓笛パレードでスタートし、七夕笹飾りや五色の電飾が華やかな灘町商店街を子どもたちのちょうちん行列が練り歩いた。
 夜には、灘町一丁目連三〇人をはじめ五色連、中山商工連が、約一キロの目抜き通りを阿波おどりで踊り抜いた。灘町横の広場の野外ステージではのど自慢大会が行われ、日ごろ鍛えたのどが披露された。
 双海町青年団の手で点火された「さようなら、来年も又!」の火文字が夜空を赤々と焦がし、第一回夏祭りは幕を降ろした。
 これ以降、夏祭りは毎年恒例となり、一九八一 (昭和五十六)年の第五回からは、町民会館横の広場が会場となった。翌五十七年の第六回からは、主催が商工会から観光協会に変わり、第七回となった五十八年には、東京からプロ歌手を招いて、カラオケ大会に花を添えた。
 一九八六(昭和六十一)年の第六回夏祭りでは、毎年おなじみの催し加えて、釣り大会、高野川海岸での地びき網、巾着網の体験航海などが行われ、夜には花火大会も加わって、より一層楽しい祭りとなった。
 一九八八(昭和六十三)年の第二一回夏祭りは高野川海岸、灘町海岸を中心に開催され、約三〇〇人の町民が〝海の町ふたみ〟にふさわしい、大鯛を釣り上げたえびす様の地上絵をつくりあげ。この模様は後日、フジテレビで全国に放映された。また、この年初めて行われたビーチバレー大会には、町内外から二〇チームが参加し、約四時間にわたって熱戦を繰り広げた。
 第一三回となった一九八九(平成元)年は、約四〇〇〇人の人出となり、思い思いに海辺の夏を満喫した。主会場の灘町海岸では「なぎさのふるさと市」が開かれ、双海特産の海の幸・山の幸が並んだ。新鮮な品が格安に買えるとあって人気を呼び、売り切れが続出した。
 一九九二(平成四)年には、灘町海岸埋立地が主会場となり、更に平成六年の一八回夏祭りからは、ふたみシーサイド公園を中心とした灘町海岸周辺が会場となった。この年、新たにイベントに加わったのがパラグライダー大会。青い海と白い砂浜という風景のなか、大空を舞うカラフルなパラグライダーは、満場の観衆を魅了した。
 平成七年には、夕焼け音楽祭FUTAMIミュージックフェスティバルが開催され(翌年以降、別行事となる)、九年には、カラオケ大会にフラメンコショーが登場。また一九九九(平成十一)年からは、恒例の催しに加えて上灘川でのわんぱくマス釣り力ーニバルが初めて行われ、海だけでなく川とも親しむことができる、盛りだくさんの祭りとなった。

八 下灘みなと祭り
 一九七八(昭和五十三)年七月二十九日、第一回「下灘地区商工祭り」が下灘小学校で行われた。
 翌一九七九(昭和五十四)年の祭りは、下灘小学校鼓笛隊が下上浜をパレードして幕を開け、夕刻には伊予五色連の阿波おどりが街を練り歩いた。主会場となった下灘小学校では、米、酒、醤油などを景品として福まきが行われた。また野外特設舞台では、この日のメインイベントとなった鷹の子温泉の「歌と踊りの大絵巻」が演じられ、観衆から盛んな拍手を浴びた。
 第三回となった昭和五十五年から、祭りの名称は「下灘地区夏祭り」となり、下灘婦人会員による詩情豊かな下灘小唄と、子どもたちのかわいらしい下灘音頭が、祭りの雰囲気を盛り上げた。
 昭和五十六年の第四回の祭りでは、新たなイベントとして、ミュージックナイターが開催され、県警ブラスバンドが町内をパレードした。
 昭和五十八年の第六回の祭りから、豊田漁港に会場が移された。この年には東京からプロ歌手を招き、カラオケ大会に花を添えた。
 昭和六十一年の第九回の祭りでは、新たなイベントとしてミニSL体験試乗が加わり、子どもたちを喜ばせた。
 翌六十二年の第一〇回の祭りから、恒例の催しに加えて、漁協の荷さばき所で素人セリ市が始まった。地元で取れたタイ、タコ、オコゼなど活きのいい魚介類がセリにかけられ、市価の半値近い値段とあって、見る見るうちにセリ落とされていった。また、これもこの年からの催しとして花火大会が行われ、夜空に打ち上げられた色鮮やかな花火が、祭りのフィナーレを飾った。
 一九八九(平成元)年の第一二回の祭りは、松山市からのツアー客も含め三〇〇〇人の人出となり、大変なにぎわいを見せた。なかでも人気を呼んだのが、素人セリ市。新鮮な海の幸が次々とセリ落とされていった。この年初めて行われた釣り堀では、大人も子どもも夢中になって釣りに興じた。また、これも初の催しとなった漁船パレードには観客もたくさん乗船し、波飛沫を立てて走る涼味満点の航海を満喫した。
 翌二年の第一三回の祭りに初登場したのが、ちびっこ相撲大会。漁協の荷さばき所横に特設の土俵がっくられ、本格的にまわしを締めたちびっこ力士たちが、大相撲さながらに塩をまき、真剣な表情で取り組みに臨んだ。夕方には、もうひとつの初の催し、町民音頭パレードが行われ、浴衣姿もあでやかに街を練り歩いた。
 第一五回となった平成四年には、夜の部に下灘太鼓が初登場。荷さばき所前のステージで、勇壮なばちさばきが披露された。
 下灘みなと祭りは夏の祭典として、その後も毎年多くの人出を集めた。平成八年の第一九回の祭りには、例年の催しに加え、ピエロの大道芸、氷の彫刻、大トランポリンなども行われた。更に平成十一年からはジャンボ巻きずしづくり、十三年からは大漁祈願祭が加わるなど、海をテーマにした多彩なイベントで、訪れる人を楽しませている。

九 夕焼けプラットホームコンサート
 一九八六(昭和六十二年六月三十日、予讃線下灘駅で第一回「プラットホームコンサート」が開催された。ここに至る経緯は、次のとおりである。同年三月、JRのダイヤ改正に伴い下灘駅が無人化され、五月に文化協会主催による写真展が下灘駅で開催された。この模様はNHKテレビで紹介され、それを見た日本フィルハーモニー愛媛支部のメンバーや地元青年有志が協力して下灘駅でコンサートを開くことを計画、日本フィルのトロンボーン奏者喜多原和人(夫人が下灘出身)が出演した。
 当日は、珍しいプラットホームでのコンサートを楽しもうという約五〇〇人の聴衆が押しかけ、大盛況のうちに開演となった。クラシックのみならずフォークソングやおなじみのスタンダードも演奏され、和気あいあいとした雰囲気のなかで、約二時間のプログラムは終了した。
 第二回となった一九八七(昭和六十二)年は、「夕焼けプラットホームコンサート」と名を改め、前年と打って変わってロックのコンサートとなった。このコンサートは、夏祭りの行事のひとつとして、まちづくり青年会議が中心となり、町内の青年組織に呼び掛けて運営を行ったもので、松山市から参加したニバンド、はるばる今治市からやって来たIバンドがステージに上がった。約三時間のコンサートは熱気に包まれたうちに終了、約三〇〇人の観客は迫力ある演奏に酔いしれた。
 一九九〇(平成二)年の第五回は、第五回国民文化祭・愛媛九〇の協賛事業として行われた。シンガーソングライターの下田逸郎ほかが出演。この催しが始まって以来の晴天に恵まれ、文字どおり美しい夕焼けをバックにした幻想的なコンサートとなった。この年から毎年九月初旬の土曜日を開催日とすることがほぽ定着した。
 翌三年の第六回は、シンガーソングライターの下田逸郎が、前年に続いてゲストとして登場。双海の夕焼けや海の情景を詞によみ込んだラブソング「双海恋唄」を披露した。クライマックスには出演者全員で「双海恋唄」を合唱し、観客も来年の再会を誓った。下田逸郎は、その後も平成五年の第八回まで四年連続で出演。すっかり夕焼けプラットホームコンサートの〝顔〟となり、「双海恋唄」はテーマソングともいうべき歌となった。
 一九九四(平成六)年三月には、愛媛県の「ふるさとづくり顕彰式」で、夕焼けプラットホームコンサート運営委員会(藤岡久仁昭会長)が、「平成五年ふるさと愛媛創造賞」を受賞した。この賞は、地域住民が自主的に取り組んでいる、地域の特色を生かした「地域づくり活動」に対して贈られるものである。伊賀県知事から表彰された藤岡会長は、「みんなの努力の成果が、八年目にしてやっと形として残るようになった。やり続けてよかった」と喜びを語った。この年のコンサートは出演メンバーの大幅な入れ替えがあり、初めて演歌歌手も出場。多彩なプログラムに舞台と客席は一体となって、コンサートを盛り上げた。
 一〇回目を迎えた平成七年からは、八月にふたみシーサイド公園で開催される「FUTAMIミュージックフェスティバル」でグランプリに輝いたクループが出演メンバーに加わることとなった。
 平成八年の第一一回には、初の地元双海出身のグループ「虹」が登場。町おこしの参考にと、京都市や出雲市から視察に訪れた。
 平成十年の第一三回には、「ネイチャー・レク・フォーラム」でつくった手づくり楽器による演奏も加わり、コンサー・トに彩りを添えた。
 「ネイチャー・レク・フォーラム」は、愛媛で開催された第五二回全国レクリエーション大会のプログラムのひとつとして、自然とふれあうことをテーマに、双海町潮風ふれあい公園を主会場として行われたものであった。空き缶などを利用した手づくり楽器で、「きらきら星」が演奏された。
 二〇〇二(平成十四)年の第一七回には、下灘郵便局が会場に臨時出張所を開設。プラットホームコンサートにちなんだ記念切手帳を発売した。これは、表紙に下灘の代表的な風景をあしらい、中を開けると、添付シールを使ってオリジナルのプラットホームコンサートを演出できるというものであった。当日のみの限定販売で、好評を得て翌年以降も発売されている。

一〇 夕焼けカップふたみ牛ノ峯パラグライダー大会
 一九九五(平成七)年十月二十八・二十九の両日、「夕焼けカップ95ふたみ牛ノ峯パラグライダー大会」が開催され、四国各県はもちろん、中国地方をはじめ、遠くは大阪、東京から約五〇人の〝鳥人〟が参加。双海の青空をバックにカラフルな舞いを披露した。
 第四回となった一九九八(平成十)年十一月十五日の「夕焼けカップ98ふたみ牛ノ峯パラグライダー大会」には、四国各県をはじめ、兵庫、富山から約五〇人が参加した。競技は、あらかじめ決められた時間に滞空時間が近いほど高得点となり、更に砂浜に指定された着地点に降りれば得点が加わるという方式で行われた。秋晴れの空を悠々と舞うパラグライダーに、ふたみシーサイド公園にかけつけた観客たちは見とれた。
 一九九九(平成十一)年の「夕焼けカップ99ふたみ牛ノ峯パラグライダー大会」には、町内外から四四人が参加。絶好のコンディションに恵まれ、参加者は双海の空を満喫した。
 二〇〇一 (平成十三)年の「夕焼けカップ01ふたみ牛ノ峯パラグライダー大会」には、県内外から三八人が参加し、日ごろの練習の成果を競った。この年初めて、松山盲学校の生徒二人が招待され、インストラクターと一緒に空に飛び出した。

一一 シーサイド「ロマンチック・クリスマス」
 ふたみシーサイド公園では毎年十二月になると、イベントホールや夕日のミュージアムを中心に約一万個の鮮やかなイルミネーションを飾り付け、町内外の人々の目を魅了している。
 恒例の十二月二十三日には、シーサイド「ロマンチック・クリスマス」が開催される。なかでも、子どもたちが毎年楽しみにしているのが、「空からサンタがやって来た」である。パラグライダーに乗ったサンタクロースが、空(牛ノ峯)から公園の砂浜に降り立ち、待ちかねた多くの子どもたちが歓声を上げながらプレゼントを受け取るイベントである。一九九六(平成八)年度から開催され、町内はもとより町外からも珍しいクリスマス・イペントとして多くの人が訪れている。
 平成十二年には、強風のためパラグライダーがテイクオフできず、急遽公園内の離れ島からサンタクロースがカヌーでやって来る演出を行い、集まった多くの参加者が大喜びをした。
 今では十二月二十三日を「ふたみの日」と称して、このイベントを実施している。

一二 その他の行事
(1) 観光パラグライダー
 一九九二(平成四)年ころから、双海の空でしばしば見かけるようになったのが、滑空するパラグライダーである。松山市などから訪れた愛好家が、牛ノ峯地蔵尊横の広場から飛び立ち、ふたみシーサイド公園の人工砂浜に着陸するコースを楽しんでいる。海を見渡しながら飛行できるところは県内にもあまりなく、景色の素晴らしさが好評だという。
 一九九四(平成六)年八月には、ふたみの夏祭りのイペントのひとつとして、パラグライダーが祭り会場に着地した。
(2) ブルーアイランドラリー
 一九九五(平成七)年十一月十一日、本町を舞台に「第二回ブルーアイランドラリー大会」が開催された。この大会は、一九七五年までに生産された自動車で、双海から足摺岬までラリーを行うもの。西日本を中心とする全国各地から集まったクラシックカーが、ふたみシーサイド公園をスタート。さわやかな朝の風を切って、夕やけこやけラインを西に向けて快走していった。
(3) 渚のストリートライブインふたみ
 一九九六(平成八)年六月二日、ふたみシーサイド公園で「渚のストリートライブインふたみ」が開催された。ロック、ポップス、ブルース、ヘビーメタルといった様々な分野の若手アマチュアミュージシャンが、ステージ上で熱演した。
(4) フォークヘんろ普段着のままで
 一九九七(平成九)年四月十八日、夕日の町での青春コンサートフォークヘんろ普段着のままで」が、潮風ふれあいの館で行われた。全国を歩いて回り、コンサート活動をしている高橋忠史が出演、「歩くことでしか見つけられない感動」を観衆に伝えた。
(5) 双海の夕日を描く展
 一九九九(平成十二年九月二~九日の八日間、友禅作家打越勇二の「双海の夕日を描く展」が、ふたみシーサイド公園で開催された。双海の夕日があでやかな友禅に姿を変え、来場者たちの目を引きつけた。
(6) 二十世紀最後の夕日を送る会
 二〇〇〇(平成十二)年十二月三十一日、ふたみシーサイド公園で、「二十世紀最後の夕日を送る会」が開催された。平成十一年度に日本一に輝いた伊予高等学校吹奏楽部のメンバーが夕日にちなんだ曲を演奏するなか、二十世紀最後の夕日に別れを告げた。この日はあいにくの曇り空で、残念ながら夕日はほとんど顔を見せなかった。