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双海町誌

第一節 豊かな観光資源の開発

一 昭和五十年代までの観光資源
 本町は、古くから、伊予灘の碧く澄んだ海と、急峻な緑の山を有し、それらの四季の変化及び果樹園・瀬戸の島々の眺望、美しい夕日、風土とフードなど、体験型の観光地として限りない可能性を秘めていた。
 しかし、本町の観光資源の中核は、昭和五十年代までは八景山であった。上灘商工会(双海商工会結成前)は、八景山の資源を保全するため、清掃活動を行うとともに、一九六八(昭和四十三)年に展望台を、昭和四十五年にはキャンプ場をそれぞれ設置した。また、昭和四十三年に禿山を八景山と改称した。改称の発端は一九三六(昭和十一)年の歌人吉井勇の来町にある。町内の短歌会員に禿山へ案内された吉井は、次の一首を詠んだ。その後数十年を経て、「八景山」の名称は町民の間に定着した。
  春の日を 八景山にのほりきて
    松かせ聴けは しつこころなし
 なお、本町は一九八六(昭和六十二年、町制施行三〇周年を記念して、八景山の頂上附近に歌碑を建てこの一首を刻んでいる。


二 夕日・ホタル・花を観光資源化
 そもそも、本町における観光開発という意識の芽ばえは、老人や子ども等の名もない人たちの小さな活動から始まったといえる。昭和四十年代から駅や国道沿いの土手などにツツジやアジサイ・コスモス・菜の花などの花が植えられ、管理されていた。これらはみな、地元の小中学校・公民館・婦人会や老人会・青年団などによるものであった。また、現在では町内外に広く知られるようになったホタルやスイセンも、個人や地元有志による目立たない営みから始まったものである。
 一方、本町においては、一九八五(昭和六十)年に村おこし事業が始まり、昭和六十二年にはまちづくり三会議(三十人委員会、青年会議、エプロン会議)が発足した。各会議は、シンポジウムや講演会を開催したので、住民のあいたにもまちづくりの意識が高まっていった。昭和六十三年のまちづくりシンポジウムでは、観光に関してだけでも、「本尊城・黒山城の開発」「牛ノ峯を観光資源に」「花いっぱい運動で町を美しく」などの意見が出された。
 以下に具体的な観光資源をあげ、その開発過程を示す。
 なお、今や本町にとって最大の観光資源となっている「夕日」については第二節以降で詳述する。

ホタルの養殖
 翠地区のボランティアグループである十進会(福岡逸郎代表、一〇名)のメンバーが、ホタルの飼育を思い立って研究を重ね、豪雨など天候の影響を受けずに安定的に増殖ができるように、湧き水を休耕田に引いて養殖場をつくった。地道な努力のかいもあって、「はたる祭り」も開催するようになり、今日では本町の主要行事となっている。
 一九八三(昭和五十八)年以降のホタル養殖活動の経緯は次のとおり。
・昭和五十八年…第一回研修会を開催、先進地からの情報収集、先進地視察。
・昭和五十九年…岡地区に飼育場をつくる。
・昭和六十 年…成果なし。
・昭和六十一年…十進会の努力が実り、ホタルの乱舞が見られる。
        翠小学校児童、幼虫二〇〇〇匹を上灘川に放流。
・昭和六十二年…第一回ほたる祭り開催。以後毎年開催されるようになり、翠地区のホタルは町内外に広く知られるようになった。
・平成  元年…はたる保存会会員募集。
川ニナ研究会(二宮則幸会長)、翠地区にできる。川内町から取り寄せた川ニナを飼育して上灘川に放流。

・平成  二年…翠地区はたる保存会の一員のファイヤーフライと、川ニナ研究会が、日尾野地区にホタルと川ニナの養殖場をつくる。

バーベナテネラの植栽
 花いっぱい運動の一環として最初に取り組んだのはツツジの栽培であった。一九八七(昭和六十二)年にエプロン会議が三〇〇〇本の苗木を挿し木した。しかし、枯らせてしまい失敗に終わったのである。
 次に取り組んだのが、バーベナテネラであった。二万本の苗を購入して国道の緑地帯への植付けが始まったのは、昭和六十三年三月のことである。
 その後も植付けは続けられ、昭和六十三年には「全国花いっぱいコンクール」で国土庁長官賞を受賞するなど、本町は『伊予の花街道』と呼ばれるまでになった。
 しかし、このバーべナテネラも、病気になりやすく雑草にも負けやすいことから、しだいに菜の花栽培へと移行していった。
 一九八八(昭和六十三)年以降のバーべナテネラの植栽過程は次のとおり。

昭和六十三年
・まちづくりシンポジウムにおいて、徳島県阿波町の井原まゆみ前社会教育主事の「バーべナテネラの咲く町からの発信」の講演
・エプロン会議が阿波町を視察。二万本のバーべナテネラの苗を購入。婦人会が由並小学校下の国道緑地帯と小網の通り穴付近の緑地帯に、大栄の婦人会が道路沿いに、また日喰の婦人会国道沿いにそれぞれバーベナテネラを植栽
・上灘婦人会の役員が小網の緑地帯へ、下灘婦人会が下灘駅下の国道の緑地帯にバーべナテネラを植栽
・「第二五回全国花いっぱいコンクール」の職場・地域の部で双海町連合婦人会が国土庁長官賞を受賞

平成元年
・翠小学校児童とPTAが上灘川の改修護岸にバーべナテネラ五〇〇〇本を植栽
・愛媛県松山地方局主催の移動花づくり教室開催(下灘支所と富貴の国道緑地にバーべナテネラ・ゼラニウム・インバチェンスを植栽)
・双海町が宝くじ協会の助成を受け、木製プランター五〇〇個を作製(商工会青年部・婦人会・ライオンズクラブ・役場職員四〇人が組立)

平成二年
・木製プランターを灘町・下灘商店街に配布。バーベナテネラを植栽

平成三年
・満野の道路沿いの土手に咲いているバーベナテネラの赤い花の中へ白で「みつの」と染め抜いた看板が登場。
・ふたみ花の会が発足。初活動として富貴の国道緑地に地元老人会員とともにバーベナテネラの苗二〇〇〇本を植栽

平成四年
・二宮三重子ふたみ花の会会長、伊予地方コミュニティ推進協議会より花いっぱい運動で表彰される。

菜の花の植栽
 本町の花いっぱい運動は、バーベナテネラのブームが去っても続いた。代わって栽培されるようになったのは、菜の花であった。菜の花は、管理が容易で育てやすいことから、またたく間に町内各地に広がっていった。
 現在では、特に国道三七八号沿いの閏住の菜の花が有名で、「伊予の花街道」の一大観光スポットとなって、多くの観光客の目を楽しませている。
 一九八七(昭和六十二)年以降の菜の花植栽の概要は次のとおり。
・昭和六十二年…エプロン会議のメンバーによる本村の国道三七八号沿いの土手の草刈り・菜の花の種まき・昭和六十三年…エプロン会議のメンバーが「菜の花会」を結成(これが本町における菜の花栽培の起源となって町内各地に広がっていった)
・平成  元年…青年団が蒔いた菜の花が下灘駅下の土手に開花
本谷のJR線沿いに菜の花が開花
・平成  二年…公民館活動で育てた閏住地区の菜の花が国道三七八号沿いのJR土手に開花(以後ここが一大観光スポットとなる)
・平成  五年…閏住地区の「菜の花祭り」開始
・平成  六年…閏住公民館が愛媛県コミュニティ推進協議会の伊予地方協議会会長表彰を受賞
・平成 十二年…「しおかせウォークなのはな大会」開始
・平成 十四年…閏住公民館が「第三八回全国花いっぱいコンクール」において愛媛県審査最優秀賞を受賞

スイセン
本町の海岸沿いの山腹斜面には、至るところにスイセンが自生している。これを観光資源として大規模に栽培しようとしたのは、下浜の金山泰盛であった。平成元年、金山は豊田漁港を見下ろす山の斜面に栽培していたミカンを伐採して三五アールの畑にスイセンの球根を植えた。それが現在では、一〇万本以上に増えたため、年末から年初のシーズンには観光客が多数訪れるようになったのである。晴れた穏やかな日などには、カメラを手にした町外からの観光客も年々増えている。
 ふたみ花の会は、このスイセンを譲り受け、休耕田で育成している。平成九年からは、ふたみシーサイド公園において「初春水仙花祭り」も開催されるようになった。


三 観光振興によるまちづくり
 一九九三(平成五)年に開催された第三回まちづくりシンポジウム「ふたみ輝きはじめ・21」における瀬戸武治先生の記念講演「まちづくりの新しい風」は、まちづくりの基本理念を示すとともに、本町の目指しているまちづくりの方向性を追認するものでもあった。
 講演の要旨は次のようなものであった。
 「地域の活性化には、地域産業おこしによるまちづくりと、観光振興によるまちづくりの二つがある。双海町には海・夕日・花等の観光資源がある。しかし、それだけでは足りない。これに伴う経営センス持った施設の運用が必要なのだ。また、山の幸・海の幸を生かしたインパクトのあるネーミングの「食」のイベントも観光地となるには必要だ。まずは話題づくりから始めなければならない」
 以降、本町の観光は、前記の趣旨に沿って推進されていくこととなった。
 一方、一九九七(平成九)年、福井県鯖江市で開催された全国地域づくり交流会議の発表において、本町の地域づくりが最優秀の「国土庁長官賞」並びに「実行委員長賞」をダブル受賞した。このほかにも、「テレビ愛媛賞」や「美しいまちづくり賞」など、多数の賞を受賞している。
 更に二〇〇〇年五月十七日には、双海町の夕日が「日本の夕陽百選選考委員会」から「日本の夕陽百選」に選ばれ、大阪天王寺において認定証を授与された。この賞は、感動を与えてくれる天然の夕日を観光資源として活用し、地域の名所づくりに貢献したとして贈られたものであった。
 これらの受賞は、夕日を地域資源としたまちづくりの成果であり、夕日が日本一美しい町」を自認する本町にとって大きな認証といえる。


四 観光の推進
 現在使用されているリーフレット「双海町観光ガイド」には、次のフレーズがある。
 「東西にほぽ一直線、一六キロの海岸線が走り、伊予灘に向かってマリンブルー・ブルースカイ一八〇度の視界が広がる。背後には、明神山・黒山・壷神山の峰々がついたてのように聳えている。黄色い菜の花、ふくいくとした水仙の香り、慈しむ町花つ  つじゃ詩情豊かなつわぶきの花。海がきらきらと輝き、夕日は海と空をあかね色に染め、風土が育むオレンジと新鮮な魚にフード  の魅力あり。このまちは夢と活気に満ちた定住と交流を目指す双海町」
 このフレーズは、まさしく本町の観光資源を表しているといえる。
 一九九四(平成六)年、町は地域振興課を新設し、ふたみシーサイド公園の運営構想の具現化と特産品開発・イベントの企画に当たらせた。ちなみに翌平成七年は、ふたみシーサイド公園がオープンすることになっており、本町の観光資源開発の完成年であった。現在は年間五五万人の来訪者があり、県下有数の観光拠点に成長している。
 なお、ふたみシーサイド公園を中心として町内各地で行われる祭り・イベントは、アイディアに富んだネーミングも手伝って、順調に成果をあげつつある。
 また、愛媛県においては「えひめ瀬戸内リゾート開発構想」が計画されているが、本町はそのなかの重点整備地区「国際コンベンションゾーン」に伊予市とともに位置づけられており、今後の開発に大きな期待が寄せられている。