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双海町誌

第四節 現代の漁業①

一 漁業調整委員制度

 一九四九(昭和二十四)年、従来の漁業制度を根本的に改革する必要から新漁業法が公布された。そのねらいは、海水面を総合的に利用して漁業生産力を向上発展させることにあった。そのため、漁業権の協同組合所有方式と委員会による漁業調整の方式を採用し、民主的に漁場を利用することを根本原則とした。漁業権も定置、区画、共同漁業権の三種類とし、回遊魚を漁業権の対象からはずして許可漁業とした。海区も燧灘、伊予灘、宇和海に分け、それぞれ漁業調整委員会にその運営を委任した。
 同法は一九五〇(昭和二十五)年三月十四日から施行され、二年間の準備期間を置いて古い漁業権を消滅させて新たな漁業権に切換えた。旧権者に対しては、国家が補償金を支払ったのである。地びき網の特別漁業権も消滅し、下灘地先沖合一〇〇〇メートルの海域に下灘漁協の管理する共同漁業権が設定せられた。上灘も同様である。小型底びき網第二種エビこぎも五トン一○馬力と制限を加え、瀬戸内海における隻数も制限された。下灘の小型機船底びき網も整理の対象となり、転換(他種漁業)と整備の二種類(二〇隻余)に整理された。瀬戸内海における小型機船底びき網の漁業権に枠をはめ、その後新規の許可を許さず今日に至っている。これは漁業資源を保護する立場からとられた措置であったが、その後に漁業秩序が乱れる原因ともなったのである。

 ローラー五智網漁業
 一九五三(昭和二十八)年、ローラー五智網漁業が始められ、タイの大漁が続いて沈滞していた豊田漁業者の活路を開いた。このころから、漁網は順次化学繊維に移行した。

 豊栄網の創立
 一九五六(昭和三十二年、下灘漁協が旧・新両巾着網(三〇四ページ参照)を買上げ、組合自営部で操業し、豊栄網と名付けた。巾着網にはこれまでの木綿網に替えてアミラン網を用いた。


二 開口板付こぎ網
 一九五六(昭和三十二年、井上利信が西宇和郡足成の漁師より伝習を受け、開口板付こぎ網を始めたが、漁獲物が安価のため長くは続かなかった。一九五八(昭和三十三)年、谷口幸雄は、当時長浜に寄港してこの漁業に従事していた尾道の漁師から操業法等を学び、この漁法が本格化した。その後漸次その数を増し、翌三十四年には一五、六隻、二年後には豊田におけるローラー五智網漁業者の全部が五智網の漁期外にはこの漁業に就くようになり、また、上灘でも盛んになった。一九六〇(昭和三十五)年、三机沖でこの漁法により昼間エビを多く漁獲し、以後毎年夏季にエビの豊漁を続けた。
 一九六二(昭和三十七)年七月、上灘エビこぎ漁業者と下灘開口板付底びき網業者との間で「エビこぎ」をめぐり紛争が起こった。


三 密漁の取締り
 一九六六(昭和四十一)年、漁業構造改善事業として下灘漁協の市場が建てられた。しかし、宇和海では密漁(開口板付底びき網)の一斉取締りが行われ、検挙者が続出した。
 一九六七(昭和四十二)年から、伊予灘でも密漁の取締りは、いよいよ厳重を極めた。特に山口県の取締船「ほくせい」は強力な取締りを展開したので、漁民の就業はしだいに困難となり、濃い憂色におおわれた。主婦たちの中には「ほくせい」に追跡される夢にうなされ、東西を知らぬ幼児でも「ほくせい」を口にしたと伝えられる。翌四十三年一月にはついに水産庁が本格的に密漁の撲滅に乗り出したので、下灘漁民のこぎ網就業は不可能となり、正常化の道を真剣に求めた。その間、船を陸揚したまま大阪方面へ出稼ぎに行く漁業者も続出したのである。
 その後下灘では、「五トン一○馬力(六一隻)ワクを守れ」とする県当局と、「五トン一五馬カワクなし」を主張する漁協との問に激しいやりとりがあったが、伊予灘漁民の反対と世論を喚起しての長期取締りになす術もなく県当局の案をのむことになった。
 取締りを受けてから許可がおりるまで七か月間は、出稼ぎ等今までにない苦しい時期であった。しかし、どんなに苦しくてもあくまで正業に踏み止まろうとする漁民の熱意と、漁協指導者のひたむきな情熱が効を奏し、一九七〇(昭和四十五)年三月一日。
 「一〇馬力六一隻」に待望の許可がおりたのである。


四 漁業種別の変遷と魚種、漁業世帯と就業者数
漁業種別の変遷と魚種は次のとおりである。
 本町の漁業世帯と就業者数(一五歳以上)の推移は、次のとおりである。


五 漁   法

(1) まき網漁業

 巾 着 網
魚のいる場所を山の上で探す魚見(山見ともいう)が、山小屋で魚群を発見すると大きな采(うちわの人きなもの)を振ることによって、魚の群れている位置を網船(母船)に知らせる。網船は直ちに指示された漁場に向かい投網(網を海中に入れること)の用意をする。
 魚場に到着した網舟と運搬船は魚群を挟むように対面して位置する。網船は魚群の正確な位置を調査していた運搬船からの合図で、網船一一。隻をつないでいた首部の「もやい綱」を離し投網する。その後、網船二隻が網を海中に入れながら、それぞれ半円を描くように全速力で魚群を円形に包囲する。
 投網が終了すると素早く大きな分銅(おもり)を落とし、海中で網の裾を絞り、魚を捕獲する態勢を整える。
 半円を描いて再び合流した二隻の網船の船首の「もやい綱」をつなぎ、魚の群れを囲んでいる海中の網の裾に取り付けられた環に通されている「ぬき綱」を徐々に絞り込む。網が絞り込まれて魚が網から出られないようになり、環があかってくると、網船の両袖より人力と機械による巻き上げで網を手繰る。おおむね網を巻き終わったところで、中央の魚取りに魚を追い込み「タマ網」で運搬船に魚を積み込む。最近では機械化(フィッシュポンプ)で運搬船に取り込むことができるようになった。
対象魚……イワシ・ハマチ・コノシロ・タイ
操業年代……明治・大正時代~現在

 山見小屋(魚見小屋)
 魚見小屋(通称は山見小屋)は、古来地びき網代の裏山に、丸太で櫓を建てて魚群(主に鰮などの回遊魚)を見張った。最多時には本町に一八か所あり、別に伊予市灘山(離山)に二か所(共栄網が使用)あった。その中でも本尊山は、海に鋭く突き出ていて、一番優れた場所といわれた。
 魚群を発見した時の魚見(山見)たちの、網船を呼ぶ勇壮な掛け声、大采を振って網船を指揮して漁をする様は、一大風物詩としてテレビで全国に放映もされた。
 昭和四十五年ごろ、魚群探知機が本格的に導入されたのちも、共栄網では小網地区の裏山(通称銅の峯)の山見小屋を平成二年まで使用した。これは町内に現存する唯一の小屋(写真)であり、ここに一人だけ上がって広い範囲の見張りをすることにより、直下視型の魚群探知機の弱点を補った。
 なお、魚見小屋の所在地は三〇〇ページに掲載している。

 ローラー五智網
 沈船や天然磯のある漁場に着くと、綱の端にブイをつけて海に落し、潮流にそって綱を順次海中に投じ終わったなら網を入れ、片方の綱を入れながらブイの所へ帰ってくる。この場合、綱で魚を威嚇するのであるからできるだけ円形に近いように入れる。ブイを取ったなら網や綱が海底に沈むのを待って揚網にかかり、袖口までローラーで巻き上げる。
 袖口が上がったら素早く沈子を上げ、終わると身網と浮子を同時にたぐり魚取りの魚をとる。
対象魚…タイ・ハマチ
操業年代…昭和二十八年~現在

(2) ひき網漁業

 地びき網
 陸地を拠点とした原始的漁法の一つで、引網はすべてこれの変化したものである。砂浜で、沖はなだらかな海底という条件の漁場を選び、片方の綱を陸に置き、海岸から沖へで出ながら綱、袖網を海に入れ、袋を半楕円形の頂点に投じて再び袖網を入れながら陸へ帰ってくる。
 投網が終わったら揚網に移り、両方が中央へ寄りながら袋を海岸に寄せ、袋を開けて魚を取り出す。
対象魚…イワシ・ハマチ・メジカ・タイ・コノシロ
使用年代…藩政時代~昭和四十年代

 サヨリこぎ
 微速で魚取りを海中に投入し、順次網を入れ袖口を入れたなら、二隻の漁船がもやいをといて扇形に広がっていく。両船首間はいつも一定の間隔でいるよう小さなもやい綱でとって進行する。全部海中に入れたなら全速で引き、魚の入ったのを見計らって、魚取りを船上に上げ口をほどいて捕獲する。

 エビこぎ(ビームトロール)
 魚取りから順次網を入れ、ハリ木近くに網口を開けるケタ竹という竹をはり、重りをつけて投入し、また綱ではりながら半速前進する。また綱の端がきたらオドリ石を落とし全速で引綱をのばし、終了したら半速でこぎ、時間がたつにつれて馬力を上げていく。一~二時間こいで揚網にかかる。
 二つの網をこぐ(二条こぎ)場合はヤリだしと称する六メートル程度の横木を両げんに使用する。


漁業種別の変遷と魚種(下灘)

漁業種別の変遷と魚種(下灘)


漁業世帯と就業者数(一五歳以上)

漁業世帯と就業者数(一五歳以上)


巾着網

巾着網


ローラー五智網

ローラー五智網


地びき網

地びき網


サヨリこぎ

サヨリこぎ


エビこぎ(ビームトロール) 1

エビこぎ(ビームトロール) 1


エビこぎ(ビームトロール) 2

エビこぎ(ビームトロール) 2