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双海町誌

第二節 明治期の漁業

 一 漁業制度の改革
 明治維新によって領主による封建的支配の時代は終わったが、漁場の使用は継承された。
 愛媛県では従前の諸魚歩一税を船改所又は区役所に行わせ、漁業の取締りをさせた。三津浜、長浜等に船改所の本港が、郡中・興居島・磯崎こ二机などに支港が設けられた。
 一八七五(明治八)年、政府は海面国有を宣言し、従来継承された漁業の権利や慣行を否定し、新漁業制度の実施を強行しようとしたが、漁業紛争が激化したため廃止された。
 一八七六(明治九)年、讃岐が愛媛県に合併したので漁場が拡大され、伊予、讃岐の漁民が両海域に出入漁し始めた。その取締りが困難となったため愛媛県では明治十年、漁場及営業取締収税仮規則を公布し、同十二年漁業規則を改正し、漁場区域、操業方法、漁業税賦課の準則を明確にし、漁場を二三区にした。一八八二(明治十五)年にこれを改正し、一五の水産区とした。明治十九年に政府が漁業組合準則を設け、県も各水産区に漁業組合を組織させ、漁業区域と操業規則を定め、明治初期の崩壊に瀕した漁業の維持を図った。明治二十二年、讃岐が伊予と分離したため水産区を九区に改めた。

二 新漁場の開拓
 「八七九(明治十二)年、栗坂善三郎が満野特別漁場を開拓し、地びき網の操業を始めた。
 一八九二(明治二十五)年、綿井寅吉が富貴特別漁場を開拓し、地びき網の操業を始めた。
 明治二十五年ごろ、本村集落の住民四七人が共同で本村海岸に地びき網漁場(網代)を開拓し、操業を始めた。
 漁場を修築するための費用は集落の共有財産であった窓石の山を処分して調達したという。久保井熊太郎が網を代表し、今田丑太郎は網の世話に専念した。このようにして集落共同による操業が始められたが約一〇年間しか続かず、その後は豊田の吉岡金太郎に操業を委任して漁獲の半分を集落に納入させたり、久保井、大森等集落の人々が五、六人の共同で操業したこともあった。やがて地元民による操業は休止となり、郡中、松前からの通漁者から歩一を徴収することで漁場の使用を許可した。一九二一 (大正十)年ごろ、本田庫治が漁獲高の一割を集落に納入し、この漁場の使用を続けた。
    
三 巾着網漁業
 明治二十年代後半に米国から「まき網」とも呼ばれる「巾着網」漁業の新技術が愛媛県に導入され、この地に合うように改良が加えられた。一九〇〇(明治三十三)年、従来からの地びき網組織である谷網、溶網、新網の三統を基にして三者が合併して新しく巾着網が結成された。これを旧巾着網という。この巾着網は長州(山口県)で伝授されたものと伝えられている。地びき網との協定や高岸・高野川・小網組合間での調整を期すため協議組織をつくった。
  ○高岸組合長西岡政義・理事演井国太郎・鷹尾寛一
  〇高野川組合長米岡惣太郎・理事矢野忠六・米井信次郎
  ○小網組合長宮本嘉吉・理事上田幸三郎・上田重太郎・上田米蔵・松本平吉
   上灘漁業組合員トシテ右ノ者ヲ選挙シ漁業上ノ一切ノ事ヲ整理スルモノナリ。
と記されている。
 これより海岸の近く棲息する魚は地びき網で、沖合を回遊するものは巾着網で捕獲できるようになり、漁獲量は飛躍的に増大していった。翌三十四年、この驚異的成果に着目した和田伊三郎を中心とする他の住人が、もう一統の巾着網の組織を編成し、操業するようになった。この組織は、株式で発足し、配当は現物支給で、組合員平等であった。以来この二統による操業が太平洋戦争中まで続けられ、前者は旧網、後者は本網(又は新網)と称された。
 この時代の巾着網一統の小型船団は、網船(母船)二隻、運搬船二隻、タル船一隻で構成されており、これらは、全部無動力船であった。昭和に入り、これらを先引きするタグボートが導入され機械化が促進された。タグボートの動力は重油機関ヤキ玉三五馬力が使用された。

四 道月特別漁場の修築
 石ノ久保沖の道月漁場は大久保の上田常太郎、谷上兵蔵、岡井友市、松岡嘉次郎の開発したものでイワシ、タイ、ハマチの漁場に適することを認め、一九〇一 (明治三十四)年、漁場の修築に着手した。漁場は、同年四月ごろ落成し、同五月伊予郡北山崎村大字森の田中覚治なる人を雇い入れてタイや諸魚に大網を使用したところ、初めてタイ、諸魚の漁獲があり、以来大網がますます盛んに使用され、タイやハマチ等も漁獲できる好漁場となった。ここで、一九〇三(明治三十六)年地びき網大網を出願し、同年四月十八日付けで許可鑑札が交付され以来操業を続けた。

五 高野川の地びき網と定置網
 高野川地区では明治期から地びき網漁が行われていた。
 古老の話しによれば、明治始めごろから、有志が相計り、地びき網漁を始めたとのことだが、一説には一九〇二(明治三十五)年に漁業法が施行され、藩政時代から続いて来た漁業の専用区域が見直された際、組合設立と同時に、操業許可を取り、始まったともいわれるが定かでない。
 また、組合設立後組合長長尾喜重郎は、組合員と計り、定置網漁業の内のます建て網の許可を取り、小網地区寄りに設置し、ボラ・コノシロ・その他の魚を獲った。一九五五(昭和三十)年の上灘地区三組合合併ごろまで時々操業された。

六 漁業法の施行
 一九〇一(明治三十四)年に制定された漁業法は漁業権確立を目的としたため、愛媛県でもその申請は八千余件に達した。時の安藤知事は、漁村の維持経営及び漁民保護のため漁業権はできるだけ組合に共有させ、権利の移転を避けるため特殊な場合だけ関係者の共有としたので、審議決定は九か年にわたり、伊沢知事のころになって大体完了した。愛媛県においてその数四四〇〇余件に達したという。
 沿岸漁業は専用、定置、区画、特別漁業権の四漁業権と入漁権、許可漁業や自由漁業に区分されている。しかし、この組織も明治末期から大正にかけ急速に進んだ漁船動力化や漁業近代化によってますます漁場は狭められ、漁民の集落意識も加わり、漁場における紛争は激化して行った。この漁業法は終戦後の新漁業法が一九四九(昭和二四)年に制定されるまでの日本における漁業の基礎であった。

七 品評会等への出品
 明治政府は産業振興を図るため、各種産業博覧会や品評会を開催してこれを奨励した。記録によると海産物では次の人々が受賞している(上灘地区)。

八 共同販売
 一九〇九(明治四十二)年、下灘漁業組合において漁獲鮮魚の共同販売を実施した。
 従来豊田においては三好眞健が魚問屋を経営していたが、同氏の長男が医師となり伊予市で開業したので同氏も移住した。その跡を継ぎ新喜蔵が魚問屋経営に従事した。しかし、約一年半後に栗坂善三郎から漁業組合で鮮魚を共同販売したいから譲渡してほしいとの申込みを受け、無条件で移譲が行われた。組合から委任されて佐竹兵衛が担当したが、不振で赤字経営となった。新喜蔵個人経営当時は組合が手数料五分を徴収していたという。

海産物の受賞記録

海産物の受賞記録