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双海町誌

第四節 薪炭

 双海地域の木炭の歴史は古く、「高見かまとこ」の地で約三〇〇年前既に生産されていたと伝えられる。その原木はカシ・シイ類が中心であったが、江戸後期ごろから、クヌギ・コナラ等が用いられ始めた。
 昭和中期までは、これら原木をそのまま「ニブキ」と称して、遠く阪神方面まで積み出していた。これらの薪はクヌギを上木とし、ナラ(中木)七分値、雑木(下木)五分値であった。特に西宮地方の酒造場では、伊予の「泥付櫟」で火入れをしないと良酒ができないといわれるほど、その質の良さが広く認められていた。更に、大阪の薪市場では「伊予櫟」として、双海町産の薪が相場の建値になっていた。明治四十三年に双海地域の総林産物が約七万四〇〇〇円であったことは表で示したが、そのうち薪としてクヌギが約二万九〇〇〇円で四〇パーセント弱を占めていた。このことからも、当時「伊予櫟」の盛況ぶりがうかがえる。しかし、温暖の地に潮風を受けて成長した良材も、昭和後期になって化学燃料の登場で衰退し、その植林面積も激減した。現在、クヌギ原木はシイタケ栽培用原木として活用され、その露命を保っている。
 木炭は、江戸後期ごろから一部で自家用に生産していた程度で、商品として売り出すまでには至っていなかった。そこへ喜多郡方面から炭焼きの新技術が導入されたのが一九一三(大正二)年である。
 上浜の矢野上義綱は、薪原木よりも木炭に加工することが有利であることに着目し、高知県に出向いて「改良カマド」の技術を修得した。その後、各地区を巡回講習して木炭の生産普及に努めた。そのころ、大栄の岡田徳市を中心に「改良カマド」の研究が進められ、竹を曲げて芯にして稲わらを使った「旭形さんだわら」等が考案された。
 このようにして、豊富な原木をもとに木炭生産が双海地域に普及した。大正末期から昭和にかけての農村恐慌時代に、養蚕とともに木炭が農民の生活を支えたのである。
 大戦中、養蚕は食糧増産のため衰退したが、木炭は燃料不足の大戦下でますます需要が増えていった。品質的にも「伊予の切炭」として好評を得ていた。
 昭和十七年ごろから二十五年ごろまでは、漁船や自動車も燃料不足のため木炭を使用した。しかし、一九五一 (昭和二十六)年の平和条約成立後は、石油等の輸入が再開され、昭和三十年ごろから石油やプロパンガスが電気器具とともに急速に家庭に普及した。その上、労賃の急騰により「採算のとれぬ木炭生産」といわれ、更にミカン栽培者の急増により、立地条件のよいクヌギ林は開墾されるなどして、木炭生産は衰退した。


木炭生産量

木炭生産量


木炭価格の変遷

木炭価格の変遷