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双海町誌

第三節 建築材

 双海地域では明治以後、建築材としてはスギ・ヒノキ等が多く使用され始めた。それまでは、古くからマツは使用されていたが、主としてカシ・シイ・ケヤキ・クリ等が使用されていた。一九一〇(明治四十三)年に上灘で杉七万三〇〇〇才(二万二一一九立方メートル)で二二〇〇円、下灘は杉一〇万二〇〇〇才(三万九〇六立方メートル)で二〇四〇円と記録されている。なお、両地区ともヒノキ材は出荷されていない。当地方にヒノキが営業的に植林されたのは、明治十年以後であろう。当時、竹の生産は上灘五〇〇〇束(直径五センチの竹なら三万五〇〇〇本くらい。太さにより本数は変わる)で二一OO円、下灘一八〇〇東(直径五センチの竹なら約一万三〇〇〇本)で六二〇円となっている。
 明治後期から大正年間に各地区共有の「焼野」にスギ・ヒノキ・マツなどが大幅に植林された。これが地区又は組山として管理されたが、終戦後、地区道や公民館増築のため大半が処分された。昭和前期までは、佐礼谷・中山・石畳・内子方面から山越えして運ばれてきた木材とともに、灘町や上・下浜を中心に海岸約一〇箇所から「沖仲仕」たちの肩を経て、連日のように船積みされ、中国・阪神方面へ送られた。
 大正時代に海岸道路が開通し、船積みに便利な長浜港や郡中港まで馬車による木材運搬が盛んになった。やがて貨物自動車が登場するが、昭和七年上灘、十年下灘に鉄道が開通して以来、その主役は鉄道に代わった。その鉄道も近年は、貨車積みを中止した上に、道路の整備、フェリーボートの発達等の変化に伴い、再び自動車による木材運送が行われている。



林野面積の推移

林野面積の推移