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双海町誌

第九節 果樹園芸②

一一 生産調整
 戦後の農業基本法において、果樹が「選択的拡大」部門としで位置づけられ、「果樹農業振興特別措置法」が制定された。その結果、新規植栽に対する補助金の給付と低利融資が実施され、西日本各地で栽培が拡大された。全国のミカンの生産量も、一九六〇(昭和三十五)年のI〇三万トンから一九七五(昭和五十)年には三六七万トンとなり、一五年間で三・六倍の生産量となった。
 このような状況下、一九七五(昭和五十)年にグレープフルーツの輸入自由化が始まり、翌年には豊作も重なって価格が大暴落した。当時は「ミカン危機」という言葉が盛んに唱えられ、供給量の増大に対応して、多くのミカンが加工用(主に果汁)に向けられた。しかし、それでも供給過剰の状態が解消しなかったため、政府・生産者団体は生産調整に乗り出すこととなった。昭和五十年から「改植等促進緊急対策事業」が、続いて「うんしゅうみかん園地転換促進事業」が実施され、生産調整が行われた。
 また、一九八八(昭和六十三)年に日米交渉が行われた結果、平成三年からオレンジ、翌平成四年からオレンジジュースの輸入自由化が決まった。これに伴って「かんきつ園地再編対策事業」が実施され、温州ミカン及び四大晩柑類である伊予柑・ネーブル・八朔・甘夏柑が、他果樹・他作物・廃園・植林へと転換された。
 更に、ウルグアイラウンドの結果、一九九五(平成七)年からオレンジの関税率が引き下げられることとなったため、「みかん等果樹園転換特別対策事業」が実施され、一九九五年以降、断続的にミカンの生産調整事業が行われた。
 本町における調整事業は次のとおりである。

一二 平成六年の大干ばつ
  一九九四(平成六)年は降雨量が極端に少なく、特に農家では水不足に悩まされた。中予地区の五、六月の降雨量は平年の半分ほどで、七月に至っては下旬までまったく雨はなく、水田は干からび、ミカンの葉はしおれ、深刻な状況であった。
 そこで伊予園芸農協では「干害対策本部」を設置し、果樹園の被害状況の調査、栽培管理の指導、取水交渉、行政機関や関係団体との連携などが行われた。本町も冷夏や寒波など、異常気象には何度か辛酸をなめてきたが、この年の干害は一〇〇年に一度といわれる厳しいものであり、生産者は猛暑の中、町と園芸組合で五箇所(上灘川・閏住川・豊田川・本村川・横松郷川)に設置した揚水ポンプ等により、車に積んだタンクローリーに取水し、一日に何往復となく水田や果樹園に給水し、必死の努力で作物を守った。

一三 キウイフルーツ全国大会
 一九九八(平成十)年、本県で「第一回全国キウイフルーツ研究協議会」が開催された。この催しは、「頑張れ! 国産キウイフルーツ」をテーマに、全国のキウイフルーツ生産者が集まり、キウイフルーツの生産に関する様々な課題を話し合うものである。
 初日に研究協議会が行われ、二日目には産地視察が行われた。この産地視察に、上灘の上尾正義、冨木幸一郎の園地が選出された。全国から集まったキウイフルーツの専門家たちが、両氏の丹精こめたキウイフルーツ園を熱心に見学していた。
 「キウイフルーツといえば双海町」というイメージが定着しつつあることを如実に示すイベントとなった。

一四 デコポンの導入
 一九九六(平成八)年、伊予柑に代わる新しい柑橘類として、本町ではデコポンの生産出荷が開始された。デコポンは糖度が高く食味が良いことで人気があり、近年、産地が急増しているため競争が激化している。また、生産方法についてもまだ課題が多く、技術の早期確立が望まれる。


うんしゅうみかん園地転換促進事業

うんしゅうみかん園地転換促進事業


かんきつ園地再編対策事業

かんきつ園地再編対策事業


みかん等果樹園転換特別対策事業

みかん等果樹園転換特別対策事業