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双海町誌

第七節 畜産


一 役 肉 牛
 双海地域における牛の飼育は、藩政時代から盛んであった。当時は仏教の影響を強く受けていたため、特に動物の肉食は厳禁されていた。また、農業中心の時代であったため、農耕の主力である牛馬を尊重する政治が行われてもいた。そのため牛馬は役牛馬として飼育されていたのである。
 双海地域では役馬は数が少なく、役牛が広く飼育されていた。「牛持ち」は農家の理想であり、一人前の農民としてのシンボルでもあった。
 また、双海地域は自然の牧草に恵まれていた。牧草は唯一の肥料源でもあった。
 一九一○(明治四十三)年には、上灘で一七七頭、下灘で二五五頭の計四三二頭が飼育され、そのほとんどが牝牛であった。すなわち、仔牛の生産を兼ねた役牛飼育が実施されていた。
 下灘村では、一九二一 (大正十)年に村営の事業として種牡牛を導入し、池之窪の成井熊吉が初代の管理人となった。
 一九三五(昭和十)年ごろから、肉質のよい但馬牛・岡山牛などが導入され、役牛から肉牛へと品質改良が続けられた。以来、五月二日・九月二十二日の牛市(上浜、現下灘小学校プール)には、近隣の町村から大勢の牛馬商や肥育農民が参集し、盛大に売買が行われた。仔牛の生産地としての「灘牛」の名声が県内外に広まった。
 上灘町での牛の市は、灘町五丁目の牛市場で毎月行われた。毎年五月十二日には大祭が催され、牛と人であふれ、出店がずらりと並び、各所で宴が開かれ、三味線や太鼓の音で終日賑わった。
 太平洋戦争中には、人手不足と食料難のために頭数が減少したが、戦後になると再び飼育熱が高まった。一九四九(昭和二十四)年の飼育状況は次のとおりである。
 なお、下灘村は県より畜産模範指定村として特別助成金の交付を受けたため、優良種牡牛の導入・人工受精の普及などに努め、上灘・下灘で年間三〇〇頭の仔牛を生産した。
 しかし、一九五五(昭和三十)年ごろから、耕耘機の普及・仔牛の価格暴落・果樹園の拡大による人手不足・化学肥料の普及などの条件がたたみかけるように波及したため、飼育頭数は著しく減少した。
 一九七〇(昭和四十五)年には、米作地の減反という大転換期を迎え、肉価の上昇と合わせて再度畜産熱が高まった。それは、各農家が一頭だけを飼育する過去の方法ではなく、専業的に数頭から数十頭を飼育する、いわゆる企業としての畜産業の始まりであった。
 しかし、畜産業として肥育されていた肉用牛も、牛肉の自由化や飼料の高騰などによってしだいに減少し、平成に入ると七戸余りで九〇頭前後となってしまった。そしてついに、一九九六(平成八)年には肥育頭数がゼロとなった。

二 養   鶏
 大正年間ごろから、農家・漁家の自家用として全町で養鶏が行われいたが、その数は少なかった。昭和の初期には、一五〇〇羽程度であった。
 一九五五(昭和三十)年ごろから、副業として数十羽から専業的に数百羽を飼育する農家が一〇軒ほど出てきた。そして一九七〇(昭和四十五)年には、町内で約一万羽が鶏卵用として飼育されていた。
 また、ブロイラー用として三戸の農家が一九七五(昭和五十)年ごろより飼育を始め、飼育期間も三か月で年四回の出荷を行い、昭和六十年まで、多いときは、年間約二〇万羽の出荷を行っていた。
 鶏卵・ブロイラーともに農協・全国農業協同組合愛媛県本部(旧、経済農業協同組合連合会)のフレッシュブース(松前町)を経て大阪市場等に出荷販売されていた。しかし、養鶏はしだいに減少し、これまで飼育していた農家も二〇〇四(平成十六)年、ついに廃業した。

三 そ の 他
 一九四七(昭和二十二)年ごろに戦後の繊維不足から羊が導入され、飼育されたが、昭和末期に消えた。
 山羊は、蛋白供給源として戦後本町全域に普及し、最盛期には約三〇〇頭に達した。しかし、人手不足と農薬等の関係で飼育が困難となり、昭和末期に姿を消した。
 養豚は、一九五〇(昭和二十五)年ごろから町内の十数箇所で飼育され、一時は約二五〇頭に達した。しかし徐々に衰退し、養豚家は昭和末期に本町から姿を消した。


1949(昭和24)年の飼育状況

1949(昭和24)年の飼育状況