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双海町誌

第二節 農業技術の発達と機械化

 いつの時代でも、産業の振興に関しては、新しい技術の導入と優れた機械の開発がなされてきた。
 我が国は、古来、農業が国民経済の基盤となってきた。なかでも米作・麦作は、気候風土・生活習慣等に適していたため、極めて重要視されてきた。特に江戸時代には、年貢米の供出があったため、米作に重点がおかれ、米作技術や農具の開発が積極的に行われたのである。
 双海地域においても、当然その例外ではなかった。灌漑用の溜池の構築や耕地の整備などの技術とともに、くわ・かま・千歯こき・千石どおし・唐箕等の新しい農具が導入された。肥料も、刈草・堆肥などの自給肥料とともに、油かす・ほしかなどの購入肥料が盛んに使用されるようになった。
 明治に入ると農業は大幅に開放され、農民の栽培意欲は向上した。欧米の技術の導入もあって、農業経営の近代化が進められたのである。
 大正・昭和と時代が進むにつれて、農業生産は年ごとに上昇していった。特に太平洋戦争後は、米作の病害虫の防除が徹底されたため、連年豊作が続いた。米作に関しては、終戦直後の労力・肥料・農薬の不足はしだいに改称され生産量は安定した。
 この表が示すように、生産量が飛躍的に上昇したのは、農業技術の発達と機械化によってであった。

一 農業技術の発達
(1) 稲の品種改良
 昭和のはじめごろまでは、病虫害に強いとされたアイトク・カメジが栽培されていた。昭和の中ごろに至っては、改良された中亀・農林一号などが採用された。その後、多収かつ耐病性の強い金南風・山彦・農林二二号などによって生産の安定が図られた。更に、質の点も重要視されるようになったため、日本錦・アケボノが栽培されるようになった。
 近年は、アキタコマチ・コシヒカリ・ヒノヒカリ・クレナイモチなどが栽培されている。
(2) 農薬の進歩と薬害
 農薬の進歩は目ざましく、戦後の稲作をはじめ、各作物とも毎年平均した収量を得られるようになった。
 既存農薬に対する抵抗性や、新たな病虫害の発生などに対処するため、より強力な農薬の開発が進められた結果、農産物の品質の向上と増産につながり、農家の増収に貢献するところとなった。しかしその一方で、撒布薬剤を浴びての中毒症状、取扱いの不注意や誤った使用による人身事故も生じることとなった。
 最近では、農薬に対して、食の安全や人体・環境への影響が叫ばれ、危害防止を重視した低毒性農薬が開発されるようになった。当然それらの農薬は、薬効が低いため、短期間使用されただけで消えてしまうことが多いのが現状である。
 耕地等の除草についても、一九六五(昭和四十)年ごろからの農業の規模拡大・農業従事者の減少に伴って、省力技術体系の確立の必要性から除草剤の開発・利用が行われた。除草剤は、草刈機等と比べると、労力もかからず、雑草の抑制期間も長く、経済効果も高くて薬害も少ないことから、盛んに使用されることとなった。
 ともあれ、一剤の農薬の開発には、使用の安全性や効果の追求のために、膨大な日時と経費を要していることを忘れてはならない。
(3) 耕種技術の発達
 苗代については、明治の末期に種籾の塩水選・短冊型播種が普及し始め、大正後期から短冊揚床苗代が取り入れられた。そして昭和中期には折衷苗代へと進み、昭和後期に箱育苗の方法が定着した。
 田植えの方法も改良されて、正条植が普及し、更に増産のためには並木植が有利とされて、農家に普及していった。
 用具は、竹定規が板定規に代わり、一九五五(昭和三十)年ごろからは縄定規が用いられるようになった。また、一九六八(昭和四十三)年の田植えには、初めて箱育苗による苗が登場し、田植機によって能率的に植えられた。以後は田植機が急速に定着した。
(4) 果樹の高接ぎ品種更新
 高接ぎの方法としては、従来、稲わら・土を利用した高接ぎ更新が主流であったが、これは手間がかかって効率が悪く、難しいものでもあった。しかし、一九七五(昭和五十)年前後からポリエチレンやビニール材等が普及して、高接ぎ更新の技術が容易になっていった。新技術は、当時の温州ミカン過剰対策として取り入れられ、早生伊予柑・極早生温州等の更新に大きく貢献した。
 近年は、伊予柑・温州ミカンの価格低迷に伴って、新品種の開発が著しくなっているため、産地を形成する意味からも、高接ぎ技術は重要となっている。

二 農業の機械化
 農業の機械化は、農業が企業化されつつある現代においては、その大きな推進力になっており、必要不可欠なこととなっている。
 双海地域における農業の機械化の推移を、米麦と柑橘栽培から振り返ってみる。
 水田の整地作業は、昭和に入ってもなお明治時代の方法を踏襲して、鋤・馬鍬により牛耕を行っていたが、一九五三(昭和二十八)年に耕耘機を導入したことが大きな転機をもたらした。昭和三十二年にはテーラーも導入された。更に、農道の整備拡張と並行して自動車による運搬が普及した。
 脱穀調整の作業も、従来、稲は、千歯で脱穀した籾を唐うすで摺っていた。また麦も、から竿で落としたものを唐箕・万石にかけて調整していた。それが、一九二一(大正元)年に足踏脱穀機(一台一七円)が導入されたことによって大きく変化した。また、一九二六(大正十五)年には、動力調整機が導入され、更に一九五〇(昭和二十五)年ごろに動力脱穀機が用いられることとなって、脱穀作業の能率も大幅に向上していった。
 一方、病虫害防除の方法も、農薬の進歩と経営の拡大に伴って大きく変化していった。病虫害の防除は、一九〇七(明治四十)年に小型手押噴霧器が使用されて以来、長い期間これによっていたが、昭和二十年に動力噴霧器が導入されたことによって大きく変化した。昭和二十三年には更に高性能の動力噴霧器が導入され、その性能が優れていることが実証されると、果樹栽培の拡張とも相まって町内全域に普及していき、昭和三十五年ごろにはほとんどの農家に備えられた。また、粉剤による防除には、昭和二十六年から手廻散粉機が使用されていたが、昭和四十年ごろから動力噴霧器に切り換えられ、防除の能率が急速に増大していった。

運搬用モノレールの敷設
 一九五五(昭和三十)年ごろから昭和四十年初期にかけては、温州ミカンはつくれば売れる状況にあった。中山間の急傾斜地までもが開墾され、温州ミカンが植栽された。しかし、採収された果実の運搬には困難をきたしていた。そこで、昭和四十年代後半ごろから急傾斜地等への運搬用モノレールの導入が検討され、徐々に設置されるようになっていった。
 昭和五十一年から五十四年にかけては、希望者を募り、団地単位での補助を受けて、本町全体の中山同地で広く利用されることとなった。
 [事業の概要]
・事業名  耕地整備軌道等運搬施設設置事業
・事業年度 昭和五十一年度~五十四年度
・補助金率 六〇パーセント
      補助残額については農林漁業資金を借り入れ年賦償還
      (昭和五十二年利息、年利一〇・五パーセント)
・標準的な事業内容(レール一○○メートル当たり)
 *事業費 六五~七〇万円程度
 *諸材料 レール   一○○メートル
      動力車   一台
      台車(小) 二台
      ポイント  一箇所
      支柱その他部品
      据付工事費他

三 農業構造改善事業
 一九六一 (昭和三十六)年に制定された農業基本法に基づき、農業の近代化を推進するための施策が各地で展開された。本町においても、自立農家の推進、農業経営の省力化を図るため、農道の新設、集団ミカン園の造成、共同防除施設の設置、ブルドーザーの導入などに、約一億円の事業費を投入して農業構造改善事業を上灘地区(三島・岡・日尾野)で実施した。


水稲一〇アール当たり収量の推移(平均)

水稲一〇アール当たり収量の推移(平均)


農用機械種類別保有農家数と台数

農用機械種類別保有農家数と台数