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双海町誌

第一節 概要

 双海地域の農業は、現在は果樹栽培がその中心だが、それまでには幾多の変転があった。
 明治初年、政府の施策によって一般農民にも米の販売が許された。また、水田の作付制限が解かれて永年作物の栽培が許され、米麦をはじめ各種の作物が生産され始めた。
 明治・大正から昭和の初期に至る自給自足の安定期を経て、戦前戦後の食料増産時代に入り、農業は穀作に重点が置かれるようになる。
 双海地域の経済の基盤は農業であったが、経営面積は狭く、いわゆる零細農業の部類に属していた。したがって、社会情勢が激しく変動するとともに、専業農家が減少し兼業農家がしだいにその数を増やしていった。
 昭和中期には、経済の成長に伴って農家でも安定した収入を得るために、換金作物への比重が増大した。つまり、従来の米麦中心を脱して果樹に重点を置くようになったのである。なかでも、ミカン栽培を中心とした果樹園の規模は急速に拡大されることとなった。
 しかしその果樹栽培も、食品の多様化、農産物の自由化等の社会的変化があり、それに伴って果実の種類を変更するなど、経営はその都度大きな転換を迫られた。

一 土地利用上の問題
 本町は総面積が六一万一七平方キロであり、そのうち山野面積が四二・〇二平方キロと六八パーセントを占め、北に伊予灘をのぞむ南高北低の急傾斜地帯である。
 耕地は上灘河の下流地域に一部集団的に開けているほかは、谷間及び山腹に小団地的に散在しており、その面積は五・五五平方キロである。
 地質は、大部分が緑泥片岩の変質岩で、母岩は結晶片岩であるが、東部の一部は黒雲母安山岩及び沖積堆積物からなっている。また土壌は、大部分が砂質壌土で耕地が浅く、酸度が強くて保水力が弱いために干害を受けやすい。更に、急傾斜地帯で土壌の浸食が甚だしく、表土流出による地力の低下は施肥設計上大きな問題になる。
 一戸当たりの耕地の経営面積は〇・九ヘクタールで、うち○・五ヘクタールが水田、ほかは畑であるが、果樹園がほとんどを占めている。
 中山間の傾斜地が多い双海地域では、一九六五(昭和四十)年ごろまで開墾によって耕地面積の拡大を図った。また、順次農道を敷設したり、運搬用軌道施設を導入したりして、農地の基盤整備を行ってきた。しかし、柑橘需要の急激な変化、価格暴落、他業への農業者流出による過疎化、少子高齢化等により農業従事者が減少し、荒廃農地が増加している。

二 経営上の問題
 農業の経営形態は、自然的・社会的・経済的立地条件に適合するようにつくり出さなければならない。経済の成長に伴う消費構造の変化により、選択的拡大の方向に即した作目を中心として経営の方針は大きく変転した。
 しかしながら、零細な耕地・労働力の高齢化・資本財力の弱体化・新作目(果樹)育成期間中の換金作目の選定など、多くの経営上の問題を抱えている。

三 農産物の流通販売
(1) 青 果 物
 本町の青果物の大半は、えひめ中央農協上灘・下灘支所(旧上灘・下灘園芸組合)集荷場へ集められ、トラック輸送で選果場に搬入し、選果・荷造りされ、全国市場へと発送されている。 青果物の流通は卸売市場が主流であり、主な取引先はスーパー、コンビニエンスストア、青果店などである。
 市場取引には、大きく分けて①競売、②予約相対取引、③時間前取引(先取り)、④競売残品相対取引の四つの形態がある。スーパーをはじめとした大口需要者との取引合理化と流通円滑のため、一九七一 (昭和四十六)年の卸売市場法制定の際に一部相対取引が導入され、セリ原則の取引から予約相対取引等へと移行している。
 一方、市場外流通は、従来は朝市などに代表される程度であったが、昭和三十年代後半ごろから都市近郊の住民を中心とした生協が設立され、直接販売が活発に行われるようになった。
 また、昭和五十一年には宅配便が開始され、全国配送網を駆使した産直青果物の流通システムの基礎も確立された。更に近年は、カタログ販売、観光農園、外食産業なども進出しており、量的にも価格の面からも無視できない規模に成長しつつある。
(2) 米
 一九四二(昭和十七)年、国民の主食である米を政府が責任をもって安定的に消費者に供給する役割を担って、食糧管理法(食管法)が制定された。以降、生産者が米を政府に売り渡すことが義務化され、政府が生産者からできるだけ高い価格(生産者米価)で買い入れ、消費者にはできるだけ安い価格(消費者米価)で売り渡す管理統制がなされてきた。
 しかし、生産者の創意工夫の発揮、量より質を求める消費者ニーズヘの的確な対応、流通の合理化を要請する声の高まり、米の不正流通(ヤミ米)の増加、米輸入の国際協調への流れなどが明確化したため、制度が実態とかけ離れ、その機能を十分に発揮できなくなっていった。結局、一九九五(平成七)年に食糧管理法は廃止され、新たに「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」(食糧法)が制定された。その結果、政府管理から民間流通を軸とした運営へと制度が移行した。また、政府米を軸に自主流通米の価格形成を誘導する方式から、自主流通米価格形成センターで形成された自主流通米価格を軸に政府米価を決定するという市場原理を導入した方式へと移行した。
 米の販売業者は、旧食管法の都道府県知事許可制から登録制に代わり、経験要件・数量要件の規制の廃止によって『意欲と能力のある者』ならば誰でも参入できることになった。その結果、スーパーやコンビニエンスストアなどの販売業者も参入し、競争原理を通じての米の流通合理化が図られることとなった。