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双海町誌

第二節 終戦前後の農政

一 戦時農政の概要
 太平洋戦争中は、食料増産が重要な国策のひとつとされた。とりわけ米と麦の増産のために、それぞれの地域に適した耕種改善基準がっくられ、共同苗代、肥培管理、収穫にいたるまで徹底的に指導が行われた。収穫された作物は、食糧管理法に基づく供出制度により、政府が強制的に買い上げることになった。
 政府はまた、一九三九(昭和十四)年に小作料統制令、一九四一(昭和十六)年に臨時農地価格統制令、臨時農地等管理令を公布し、農業における生産性と経済効率の向上を図った。
 農村部では、中堅青壮年による食料増産推進隊が組織され、愛媛県でも彼らを周桑郡庄内村農事修練場に送り、開墾作業や勤労奉仕を通して皇国農民道、農民魂を宣揚認識させた。訓練を終えた農士たちはそれぞれの地元に戻り、食料増産の推進力となって活躍した。
 しかし、これらの施策と努力にもかかわらず、戦争の長期化に伴って農村の労働力は極度に低下し、生産資材の不足にも悩まされ、食料増産は思うにまかせない状態となった。そうした窮状を打開するため、江戸時代から救荒作物として利点を認められていたサツマイモを大規模に栽培しようという計画が立案実行された。農家ごとに割り当てて栽培地を開墾させ、また果樹園を強制的に整理させた。

二 供出制度
 供出制度とは、前項でおおまかに述べたように、戦時において食糧を確保するため、生産者収穫見込み量から農家の自家保有量を差し引いた残りを政府が強制的に買い上げる仕組みである。
 食糧管理法に基づいて、この制度が始められたのは一九四〇(昭和十五)年のことだが、翌昭和十六年には同法がいっそう強化され、各農家が自家保有米も自発的に供出することを勧奨するようになった。昭和十七年には、米だけでなく麦もこの制度の管理下にはいり、昭和十八年には農村に対する統制がいっそう強まり、地区割り当てが行われるようになった。戦局が悪化し、食糧事情がいよいよ急迫した昭和十九年になると、植え付け前の段階で割り当てが行われ、超過供出まで義務づけられるようになった。
 戦争は昭和二十年に日本の降伏によって終わったが、農業生産が直ちに復興する見込みはなく、外地からの数百万の帰還者を迎えて国内の食糧事情はむしろ悪化する状況にあった。そのため、終戦直後には供出制度が戦中以上に拡大強化され、米麦に加えてトウモロコシ、ダイス、アワ、サツマイモの供出が強制された。
 特にサツマイモは当時の最も重要な食糧資源であったため、双海地域でもその増産に力を入れ、指導者を内原訓練場に派遣して研究させたり、栽培促進のための講習会をたびたび開いたりした。小学校の校庭がサツマイモ畑になったのも、このころのことである。
 やがて、技術の進歩、肥料の増産と、アメリカからの援助等によって、我が国の食糧を取り巻く状況はしだいに好転していった。はじめに麦と雑穀類が食糧管理法から除外され、一九五五(昭和三十)年には米の強制供出も解除されて、政府の予約買い上げ制度となった。ただし、米の自由販売は相変わらず認められなかった。ようやく認められたのは一九九五(平成七)年のことである。

三 農業調整委員会
 終戦後三年目の一九四八(昭和二十三)年七月二十日、生産や供出割り当てなどを公正かつ計画的に行えるようにするため、食糧確保臨時措置法が公布施行された。この法令に基づいて、上灘・下灘両町村に農業調整委員会が設置された。

四 農地改革
 太平洋戦争後、民主国家として再生することを誓った我が国には、いちはやく着手しなくてはならないいくつかの重要課題があった。そのひとつが、経済の民主化である。そしてこの課題を達成するために何よりも急務とされたのは、財閥解体と農地改革である。
 一八七三(明治六)年の地租改正は、上地所有者の経済的基盤を強化する一方で、少数の寄生地主に権力・経済力を集中させ、大多数の小作農を窮乏の状態にすえおいていた。敗戦後の日本を統治していた連合国軍総司令部(GHQ)は、このような日本の農村のありかたを、非生産的な圧制的制度の典型であり、軍国主義を支えた基盤だと考えた。そうした旧来の地主的土地所有制からすべての農民を解放し、自由な独立自営農民を育てるため、農地改革が断行された。とりわけ、長年にわたって零細農民を圧迫し農村の近代化を阻んでいた高率物納小作料を排除することが、この歴史的改革の目的でもあった。
 終戦から問もない一九四五(昭和二十)年十一月、マッカーサー最高指令官は財閥一五社の資産凍結と解体を命じ、続く十二月には農地改革を指令した。
 一、土地の所有権を不在地主から耕作者に移す
 二、不耕作地主から農地を適切な価格で買い取る
 三、収入に応じた年賦で小作人に農地を買い取らせる
 四、自作農民になった旧小作人を再び小作に戻らせないための合理的な保証策を講ずる
 五、現物小作料を廃止して金納小作料に改める
 日本政府は、この指令を受ける以前から独自に農地改革案を用意していたため、それに基づいて翌一九四六(昭和二十一)年二月一日から改革を実行した。このときの施策は、のちに「第一次農地改革」と呼ばれることになるが、不徹底な部分が多かったうえ、地主による農地の売り逃げや小作地の取り上げなどの行為を招く結果となった。
 総司令部は、この日本政府による改革を不満とし、より徹底した改革を行うよう勧告した。その結果、一九四七(昭和二十二)年三月から、自作農創設特別措置法による「第二次農地改革」が実行されることになった。

 一、不在地主の貸し付け地全部と、在村地主の貸し付け地のうち一町歩(北海道では四町歩)を超える分を国が強制的に買い上げ、小作人に売り渡す
 二、今後も貸し付け地とされる耕地については、小作人の耕作権を強化し、小作料を金納とする(小作料は収穫米代金の二五パーセント)
 第一次及び第二次の農地改革を進めるに当たり、政府は各地に公選の農地委員会を設置するよう命じた。一九四六(昭和二十一)年十二月二十日、第一回の委員が次のような構成で選出された。

 一号委員(通称・小作層委員)定員五名
耕作ノ業務ヲ営ム者ニシテ農地ヲ有セザルモノ又ハ耕作ノ業務ヲ営ム農地ノ面積が其ノ所有スル農地ノ面積ノ二倍ヲ超ユルモノ
 二号委員(通称・地主層委員)定員三名
農地ノ所有者ニシテ其ノ所有スル農地ノ面積が耕作ノ業務ヲ営ム農地ノ面積ノ二倍ヲ超ユルモノ
 三号委員(通称・自作農委員)定員二名
耕作ノ業務ヲ営ミ且ツ農地ヲ所有スル者ニシテ前二号二該当セザルモノ

 双海地域選出の委員は次表のとおりである。

 第二回の農地委員は、一九四九(昭和二十四)年八月十八日、次のような構成で選出された。
 一号委員(小作層)定員二名
   二反歩ヲ超ユル面積ノ小作地二付耕作ノ業務ヲ営ム者
 二号委員(地主層)定員二名
   前号二掲ゲル面積ヲ超ユル面積ノ小作地ヲ有スル者
 三号委員(自作層)定員六名
   耕作ノ業務ヲ営ム者又ハ農地ヲ所有スル者ニシテ前二号ニ該当セザル者

 双海地域では、昭和二十二年から農地の買収が行われ、買収された農地は原則として現耕作者に売り渡された。
 農村の民主化と生産性の向上を目的とした農地改革は、こうして実現したが、それに対する地主階級と小作人たちとの反応は、おのずから対照的なものがあった。地主たちは、先祖代々の土地を安く手放すことを余儀なくされ、小作料という既得の財産権をも侵害されるなど、不利益が多いとして農地改革に反対した。表立った反対運動以外にも、農地取り上げ、農地闇売り、闇小作料の強要、仮装自作など、様々な違法行為が頻発した。
 一方、小作農民の側では、当然ほとんどが農地改革を歓迎した。先祖以来の念願であった土地所有が、わずか畦豆代で実現するのであるから、彼らの喜びと驚きは極めて大きかった。
 ただし、農村居住者の多くが晴れて自作農になったとはいえ、農業経営の規模や効率という点では、特に拡大も向上もしたわけではなかった。従来どおりの広さの田畑で、去年までと同じ作物を育てていることに変わりはなかったのである。日本の農家の経営基盤が改革前と同様に弱体であったことは、なお留意しておくべきであろう。
 なお、以上に述べた改革施策は既耕地に関するものである。このほかにも政府は、未開墾で耕作に適した土地を希望者に開放する法令を公布し、外地からの引揚げ者や復員兵、都市部からの帰農者などが新たに自作農地を得られるよう配慮した。双海地域でも開拓帰農組合が設立され、現在の壷神地区は、そのとき発足した戦後生まれの集落である。
 一九五八(昭和三十三)年三月、耕地の買収売り渡し事務が終わって、我が国の近代史に特筆される農地改革はひとまず完了し、以後は農業経営と技術の実質的改良を進める段階に入った。


第一回 農地委員

第一回 農地委員


第二回 農地委員

第二回 農地委員


農地改革による買収農地

農地改革による買収農地


売渡し農地面積

売渡し農地面積


各条項別買収地面積

各条項別買収地面積


被買収地主戸数

被買収地主戸数


農地の売渡を受けた戸数及び面積

農地の売渡を受けた戸数及び面積