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双海町誌

第一節 概要

一 江戸時代
 幕藩体制下の農政に関して最初に取り上げるべきことがらは、領主と農民との関係、つまり年貢取り立ての制度であろう。米の石高が経済力の指標とされた藩政時代には、農政は行政の根幹であり、更に極言するなら、領主・庄屋・農民という構造こそが当時の支配体制そのものといってもよかった。
 双海地域に初めて庄屋が置かれたのは、江戸時代初期の寛永年間(十七世紀前半)のことである。およそ半世紀後の元禄年間に精密な耕地調査が行われたことは前章で記述したが、それぞれの村高に応じて年貢の高が指定された。次の表を見れば、当時農民に課された年貢高がいかに高率で苛酷なものであったかが分かる。
 要するに、農民はほとんど領主のために耕作しているも同然であった。一粒の米すら百姓の口に入らなかったという言説にはいささか誇張があるとしても、米というものは正月・五節供・神仏祭のほかは口にするものではないという考えが、長く彼らを支配していた。一〇石の米を納めることができた者も、自家では麦一升に二合半程度の米を混ぜて食するのを無上のご馳走とし、ほとんどの農家では、山地や荒れ地を開墾した無年貢地でトウモロコシ、アワ、ソバ、アズキ、サツマイモなどを育て、それを主食とする生活に甘んじていた。
 江戸時代の農政は、おおむね農民の永続的な忍従の上に成り立っていたといえる。

ニ 農政近代化の黎明
 一八六八(慶応四)年九月八日、明治の御代へと時代が改まっても、農業はなおしばらく江戸時代の旧態のまま存続していた。農村に新時代の波が押し寄せてくるのは、一八七一 (明治四)年のことである。この年の五月二十四日、一般の農民にも米の販売が認められ、九月には大蔵省の布達により水田の作付け制限が解除され、適地には永年作物を栽培することが許されるようになった。
 江戸末期から明治初年のころには、前項で触れたように米麦以外にも様々な作物がっくられていたが、領主の保護を受けた特用作物は別として、大部分はあくまでも年貢米の生産に支障をきたさない範囲で、川原や林間などを利用して小規模に栽培されていたに過ぎない。作付け制限の解除は、そうした作物を自由かつ大規模に栽培することが認められたということであり、当時の農民に大きな解放感を与えたと思われる。こうして明治四年以後、果樹や桑などの永年作物をはじめ、多くの作物が田畑で育てられるようになった。

三 地租改正
 江戸時代の年貢米制度は、当時の国内経済と産業の実状に即した物納制度だったが、明治の新時代となってからは、国家の近代化と殖産興業を達成するため、商品経済に適合した金納制度が求められるようになった。また、新政府は廃藩の際に旧諸藩の債務をひきついだために財政が逼迫しており、その点からも、収獲高に左右されない安定した歳入を実現することが急務であった。
 一八七二(明治五)年、政府は従来の年貢を地租と改め、年貢米を公定代価に換算した金額を納付させることにした。しかし、農民の多くは米を金に換える方途をもたなかったため、金納に反対する声があちこちで起こり、政府はやむなく金納と米納を併用することを認めた。
 一八七五(明治八)年、政府は、従来の田畑の等級を収獲高表示から地価に改め、土地所有者を納税者と規定した。これによって地租は全面的に金納となり、同時に地主や自作農の土地所有権が明確になった。ただし、小作人が地主に払う小作料は相変わらず物納であったため、米価が騰貴するとそれを商品として外部に売る地主だけが利益を得るといった不公平も生じた。
 田畑の地租改正に続いて山林の地租改正も行われ、それまでとかくはっきりしなかった山林の所有権と面積も、初めて明確に定められた。

四 救農土木と土地改良事業
 双海地域では、河川や溜め池を水源とする潅漑事業が江戸時代初期から行われていたが、そのほとんどは個人の労力による小規模なものであった。
 地元で組合をつくって事業を共同で行うようになったのは明治中期ごろからであり、それによって潅漑施設の整備、堤防の強化、埋立工事、湿田の改良による耕地の拡張などの大規模な工事が可能になった。一八九九(明治三十二)年、「耕地整理法案」の成立によって、田区改正、畦畔改良、区画整理が促進され、一九〇九(明治四十二)年の「耕地整理法」により、潅漑排水事業に重点が置かれるようになった。
 一九二七(昭和二)年の金融恐慌と一九三〇(昭和五)年の昭和恐慌による農林作物の大暴落は、全国の農村に打撃を与えた。また、都市部で就労していた農村出身者の相当数が失職又は離職して帰郷したため、農村の失業者数が急激に増加した。双海地域ももちろん例外ではなく、産業経済の不振と雇用の不足とが大きな問題となっていた。こうした状況への対策として、。九三二 (昭和七)年から一九三四年にかけて、時局匡正事業による救農土木工事が実施された。



村高と御年貢高

村高と御年貢高