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双海町誌

第二節 藩政時代

 前節でも述べたように、双海地域は海に面した森林原野地帯であったために、交通の便は悪く、先進地の文化を吸収するには極めて不便な地域であった。そのため、住民の大多数は農業を営み、一部が海浜地帯に居を構えて漁業を営んできた。
 その後、寛永年間(一六二四~一六四四年)に当地に初めて庄屋が設けられ、大洲藩政のもとに置かれたため、住民の数もしだいに増え、田畑の整理もなされた。更に元禄年間(一六八八~一七〇四年)には、耕地の整理がなされた。その結果、各村の村高及び年貢が指定されることとなった。
 その後も、寛延・宝暦の両年間に耕地に検地が入るなど、農政を主とした施策の整備に伴って、経済面もしだいに活況を呈した。
 藩政時代の産業の基礎は農業であり、藩は農業を保護・育成した。このため、開墾・治水・潅漑等の事業が村内の至るところで実施された。現在の田畑・池・水路などの多くはこの時代に整備したものである。
 この時代の上灘地区の産業人口については、宝暦(一七五一)年以後の記録には次の数値が見られる。
 合計すると六九七戸こ二四六一人となり、約二五〇年前に現在とほぽ同数が居住していたことになる。


上灘地区における村別の産業人口

上灘地区における村別の産業人口