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双海町誌

第一節 主なできごと

一 概   要
(1) 前   期
 伊予地区は五町九村から一市四町一村となり、以後今日までの自治体制で続けられてきた。
 双海町は、一九五五(昭和三十)年三月三十一日、上灘町と下灘村が合併し、誕生した。旧上灘町役場が双海町役場(本庁)となり、旧下灘村役場が双海町役場下灘支所になった。旧上灘庁舎は一九三五(昭和十)年に建築された木造二階建てだったが、広かったため、一階東側の約三分の一を上灘農業協同組合の事務所として使用した。早速、町長・町議会の選挙が行われ、町長には旧下灘村長松田浦太郎が就任、議員は上灘地区から一五人、下灘地区から一三人が選任された。
 その年の十二月に「地方財政再建促進特別措置法」が制定され、双海町はその翌年に適用された。しかし、適用中は「双海町建設計画」で合意された事業はほとんど着手できず、上灘・下灘の対立が内在していた。更に、合併に伴い、一九五五(昭和三十)年、一九五九(昭和三十四)年の二回にわたる町長選挙があったことも、対立意識を助長させる一要因となった。上灘地区を地盤とする米岡伊太郎と下灘地区を地盤とする松田浦太郎が厳しい選挙戦を繰り広げたのである。
 しかし、町長が出ていない地区からは助役を、また議会議長は上灘・下灘地区から交互に選出したほか、消防団の出初式は上灘・下灘地区で交互に開催したり、公共施設もほぼ上灘・下灘地区を交互に整備するなどの配慮がなされた。つまり、一極集中ではなく、分散・共生型の町づくりを実施したのである。徐々に定着していった公民館活動や、一九六七(昭和四十二)年、上灘地区の仲野和が無投票で町長に就任したことなども影響し、その後、地区意識は急速に和らいでいった。
 昭和四十年代、様々な産業において、量より質が求められ始めた。第一次産業を基盤とした本町では露地ミカンの価格が暴落し、より甘い品質が求められるようになった。米においては、増産から一転して減反へ転換された。林業では、輸入木材の普及と建築様式の変化により、スギやヒノキの建築材の需要が減り、更にマツが害虫でほぼ全滅となった。漁業は漁獲量が減少し始め、更に若い世代を中心に魚離れの傾向がみられた。
 人口は年々減少し、一九七〇(昭和四十五)年十月一日の国勢調査において過疎地域に指定された。
 昭和五十年代、オイルショックの影響で物価が高騰するなか、国土調査(地籍調査)が開始された。明治初期に実施された通称「一筆調査」以来、一〇〇年目の大事業であり、一〇余年の歳月を経て一九八八(昭和六十三)年に完了した。
 また、一九七七(昭和五十二)年から、関西有数の漁港と言われた豊田漁港の内陸部が埋め立てられ、漁民団地が造成された。

(2) 後   期
 昭和五十年代後期、地価が異常に高騰し、株価が上昇し続ける中で、町名変更・撤回、町長リコール運動という、かつて体験したことのない混迷期を迎えた。これらの騒動は、一九八三(昭和五十八)年の町長選で決着をみた。
 昭和五十年代になると、中山間地域である本町にも、自家用車が普及した。昭和六十年代には農林漁業ともに後継者不足が深刻となり、就業者の高齢化が進行した。
 平成になり、バブル崩壊の影響で、全国では企業の倒産が相次いだ。政府は不況対策として、公共事業を強力に推進した。本町は、新庁舎を建築し、JR上灘駅の山手に運動公園を、北側にふたみシーサイド公園を整備した。また一九九九(平成十一)年には、上浜の海岸を埋め立て、しもなだ運動公園を完成させた。
 平成十一年度を境に国からの交付金が減少し始め、町財政は厳しさを増した。少子高齢化が進み、農林業の就業者の高齢化は一層深刻となった。これに追い打ちをかけるように農作物の価格が低迷し、放置林やカズラに覆われ荒れていく果樹園が目立ち始めた。
 その一方で、携帯電話が普及し、職場のみならず一般家庭にもパソコンが広まり、本格的な情報化時代を迎えた。
 市町村合併特例法の適用期限が迫る現在、本町は一市二町(伊予市・中山町・双海町)合併の道を選び、双海町五十年の歴史を閉じることとなった。

二 財政再建団体へ
 双海町役場は、町が発足した一九五五年(昭和三十)年の三月三十一日から業務を開始した。
 昭和三十年度の決算は、翌三十一年度の収入見込み額から四四六万七〇〇〇円を繰上充用(前借)して、歳出額に歳入額を合わせた。双海町の財政は、発足当初から深刻な状況であった。
 合併した昭和三十年十二月に「地方財政再建促進特別措置法」が制定され、昭和三十一年度から本町はその措置を受けた。「財政再建団体」に指定されたことは、財政赤字団体として公認されたことであり、大変なことであった。
 昭和三十一年度の決算は、歳入・歳出決算総額四五四〇万三一一九円で、歳入で町債(町の借金)八五〇万円(一八・七パーセント)をして、歳出で前年度に前借した繰上充当金四四六万七〇〇〇円(九・八パーセント)を支出(返済)した。決算総額では余剰金四四〇万円があり、余裕があるように錯覚しやすいが、借金を八五〇万円して、残金が四四〇万円あっただけのことである。差額四一〇万円が、昭和三十一年度の単年度実質赤字額であり、決算総額の九パーセントであった。
 国は町債の限度額を定めて規制し、その範囲内であれば利子補給等で手助けをしてくれたが、特に歳出は厳しく制限し、法律の目的どおり双海町の財政再建を強力に促進した。
 その間、町長以下役場職員の給料は据え置かれ、議員の報酬も年額一万円のままで、また各種団体等への補助金等は原則廃止された。役場職員の出張は回数が極限され、やむを得ない用務で県庁へ出張しても、上灘駅から松山駅間の往復の汽車賃のみが支給されただけで、そのほかの電車賃は職員の負担で、日当や超勤手当は夢のまた夢であった。職員たちは役場に届いた手紙の封筒を昼休みに裏返して再利用するなど、節約に励んだ。
 国からの「財政再建団体」に指定されたら、解除されるのに一〇年かかるというのが通説だったが、本町は五年で復元し、昭和三十五年度(三十六年三月三十一日)で解除された。

三 過疎地域指定
 一九七〇(昭和四十五)年十月一日に実施された国勢調査に基づき、人口減少が続く本町は過疎地域に指定された。
 当時の指定条件は、「人口が五年間で一〇パーセント以上減少した財政力の弱い市町村」であった。本町は発足した昭和三十年ごろから人口が減少し始め、昭和三十年代後半以降は、年平均二〇〇人ほどの減少が続いた。僻地の町村が急激に過疎化し、一方、都市近郊の町村の人口が急増し都市化が広まったのである。
 国はそれを防止するため「過疎対策特別措置法」を制定し、指定した市町村が実施する事業に対して積極的に財政支援を行った。
 第一産業を主体にした本町は、農林道や漁港など、直接農林漁業にかかわる基盤整備事業や、基幹集落センター(現在の町民会館)、トレーニングセンター等、施設の多くが過疎対策事業で整備された。
 これらの事業は、「国庫補助事業」として、事業費の五〇パーセントが国庫から支出される。これに県補助金が一〇パーセント加算され、四〇パーセントを地元市町村が負担するのが一般的である。しかし、過疎地の場合、国は地元市町村負担の四〇パーセントを過疎債として認め、償還費の七〇パーセントを毎年支出する地方交付税に加算する。したがって、過疎市町村に指定されたら、総事業費のわずか一二パーセントの負担である。
 その後、人口の減少率の算式や法律の名称は変わったが、現在も本町の過疎地指定は続いており、年平均二億円か過疎地対策事業として実施されている。

四 双海町誌の発行
 一九六八(昭和四十三)年が明治一〇〇年に当たるので、それを記念して『双海町誌』を編纂することとなった。同誌は、一九七一(昭和四十六)年に発刊された。
 編纂は教育委員会事務局が担当し、教育長が編纂委員長を、教育次長が編纂主任を兼務し、編纂委員二五名が五編に分かれて取材・編集に当たった。当初はA5判で四〇〇ページを目標に編集を開始したが、五編二一章で六八〇ページに及ぶ分厚い冊子となった。
 印刷製本の実費を踏まえて、一冊一八〇〇円で希望者に配布する方法がとられた。申込名簿は現存しないが、約七〇〇部が町内で購入されたと伝えられる。なお、町内外の関係団体や機関等に無償配布したものを加えて、一〇〇〇部が印刷発行された。
 この町誌は、印刷製本以外の作業(取材・編集・浄書・校正等)はすべて手作りであり、旧記については明治末に編集された上灘村及び下灘村の『郷土誌』も引用された。
 発行後三三年を経過した現在では、編纂委員長ほか三分の二以上の方々が他界された。当時、無報酬で編纂に尽力された人々は次のとおりである。

五 国土調査
 耕地調査と国土調査
 一五〇〇年代末に豊臣秀吉が行った太閤検地をはじめ、一七五○年ごろに実施された寛延・宝暦検地は、田畑などの耕地調査であった。
 一八七八(明治十)年前後に数年かけて実施されたすべての地目についての土地調査は一筆調査ともいわれ、登記所に土地登記簿及び地図として保管された。同様のものが市町村庁舎に土地台帳(名寄帳)及び野取図として保管され、地租税の根拠となった。
 一九五一(昭和二十六)年に、国土の実態を科学的かつ総合的に調査する目的で、国土調査法が制定された。実施主体は市町村であったが、いずれも大戦後の諸事業に忙殺されていたため、実施時期が大幅に遅れた。
 事業概要
 本町は一九七五(昭和五十)年四月一日、国土調査課(職員五、後年七)を新設して地籍調査を開始した。土地に関する戸籍調査ともいわれていた地籍調査は、土地を一筆ごとに測量器具で正確に調査測量するもので、複雑に起伏する急傾斜地の本町では困難な作業となった。
 まず実測までの作業が大変だった。役場に土地台帳はあっても、現地には表示がないのである。明治時代に作成された野取図は、特に山林では整合しない場合が多かった。更に、明治以後一〇〇年間は、書類のみで移動や分・合筆登記がされていたので、権利書と現地が整合しない事例が多発した。また、境界線の決定も大変な作業だった。一筆ごとの所有権とその境界が確定しないと実測はできないのである。
 これらの基礎的な条件整備に重要な役割を果たしたのは、地区ごとに選任された国土調査(地籍調査)実行委員であった。その地域の土地に精通していた実行委員を中心に、数多くの関係者の力が集結した。一三年の歳月と総事業費五億二四二七万九〇〇〇円をかけて、実施面積六一・九四平方キロに及ぶ国土調査は、一九八八(昭和六十三)年三月三十一日に完了した。地道な努力を要した偉大な事業であった。

六 まぼろしの「伊予灘町」
 一九七九(昭和五十四)年ごろ、町名変更への動きが強まった。瀬戸大橋の建設が目前となり、来る瀬戸内海時代を見据え、地方の小都市「双海町」の将来像を模索しようという中で起こった動きである。
 当時は国や県が「地方の時代」を打ち出し始めたころでもあった。「双海」という町名が、「そうかい」と誤って読まれたり、地理的にも分かりにくく知名度が低いことなどが問題点としてあげられた。全国に知られている地名にちなんだ町名に変更し、第一次産業品の販売や観光事業の推進を図ろうというのである。
 新町名として、海に面して自然に恵まれた町というイメージと、全国的に知られている伊予灘にちなみ「伊予灘町(いよなだちょう)」という案が出された。町では、移動公民館などで説明会を開催し、住民への説明や意見聴取を行った。そして、議会での議決を経て、一九八一(昭和五十六)年四月一日から町名を伊予灘町へと変更することになった。市町村合併を伴わない町名変更は、注目の的となった。
 しかし、「双海町」に愛着を持つ町民の中から、町名変更に異議を唱える人が出てきた。家族の中でも賛成、反対と意見が割れるところとなった。しだいに町名変更反対の声が強くなり、マスコミの注目を浴びるまでに発展した。
 行政的な手続きを経て三月末には町名変更を行う予定であったが、こうした事態を受け、当時の仲野和町長は臨時議会を開き、町名変更撤回を表明、議会もこれに同意した。
 こうして伊予灘町への町名変更は見送られることとなったが、変更反対の運動は、町長の行政姿勢を問うリコール運動にまで発展した。直ちにリコール請求のための署名活動が行われた。しかし、仲野町長は、活動の広がりを受けて任期途中で町長を辞任、町民の信を問うこととなった。
 町長選には、仲野和前町長と、町名変更反対派が推薦する丸山勇三の二人が立候補した。七月十二日に投票が行われ、その結果、仲野和(二六六〇票)が、丸山勇三(二五五八票)をわずかに上回り、再選された。
 両派の確執は一九八三(昭和五十八)年の町長選挙まで持ち越され、この時は丸山勇三が初当選を果たし、町名変更に始まった一連の問題は決着した。

七 庁舎改築
 双海町役場旧庁舎は、一九三五(昭和十)年に建設され、庁舎前にロータリーを備える当時としてはモダンな建物だった。しかし、建築から五〇年以上が経過し、雨漏りなど老朽化が目立つようになった。そのため、旧庁舎の後ろに新庁舎の建築がされることとなった。
 一九八九(平成元)年五月から工事が開始され、約一年をかけて完成に至った。三階建ての新庁舎は、至るところにガラス張りの窓が設けられ、広い町民ホールを備えた明るく清潔な建物である。

八 町章・町花の制定
 一九七四(昭和四十九)年、双海の二つの海の波頭を象徴した町章が制定された。また、翌一九七五(昭和五十)年には、双海の山野に春を告げる可憐な「つつじ」が町花に選定された。

九 住民サービスの電算化
 一九九五(平成七)年四月、役場三階に電算室が設置され、最初に「住民基本台帳」が電算化された。役場業務もコンピュータ時代を迎え、電子自治体への第一歩を踏み出した。


町村合併後の伊予郡・伊予市

町村合併後の伊予郡・伊予市


編纂担当者

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年度別調査区域地図

年度別調査区域地図


認証状況

認証状況


庁舎改築

庁舎改築


町章

町章