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双海町誌

第一節 戦後十年の歩み

一 概  要
 一九四五(昭和二十)年八月十五日、終戦の詔勅があり、日本は無条件降伏をした。外地の兵士は現地軍に武装を解除され、内地の軍隊は自らの手で武器弾薬を処理し、残っていた軍艦・飛行機などを占領軍に引き渡した。軍艦のほとんどは直接爆破・解体されたが、後年、占領軍の標的艦や米軍の原爆実験艦として外国の海底に沈んだものもあった。
 九月二日に占領軍の日本進駐が開始された。松山には十一月に進駐してきた。そして、連合国軍総司令部(GHQ)の命令に基づいて十二月に県議会が招集され、昭和二十一年度県予算三一八五万円か可決された。
 そのころ、戦時中に国事犯として投獄されていた政治・思想犯が釈放された。一九四六(昭和二十一)年十一月には、大日本帝国憲法が廃止され、国民一人ひとりの主権を前提として、平和と繁栄を願う日本国憲法が制定された。この新憲法を基に民法・刑法・商法などが改正され、地方自治法やそれに基づく教育・徴税・選挙・公務員に関する法令など様々な法令が新設された。
 このようにして、既定の非民主主義的な諸法律は、撤廃又は大幅に改正された。なかでも、二〇歳以上の男女すべてに選挙権が認められ、県知事や市町村長を直接選挙するようになったことは特筆すべきである。明治維新後も温存されていた地主制度は、農地改革の断行によって田畑が分配されることとなり、日本農業は自作農中心の農業へと脱皮した。これらの法は、以後改正を重ねることとなる。
 地方自治法の制度は、中央集権的な国家中心の統制力を縮小又は分散させることとなった。更に、議会の独立と権限が強化され、選挙管理委員会・監査委員・教育委員会・農地(後に農業)委員会等の独立した執行機関も新設されて、従来の市町村長が独占していた議決・執行権を分散させることとなった。
 一九四八(昭和二十三)年には、米国教育使節団の報告に基づいて、教育制度が六・三・三・四制に改革され、上灘・下灘中学校が新設された。また、南海大地震を契機として、上灘漁港の工事に着手した(豊田漁港は昭和二十六年着工)。
 また、この年の七月に「国民の祝日に関する法律」が公布された。二月十一日の「紀元節」が廃止(一九六六年に「建国記念の日」の制定)され、四月二十九日の「天長節」が廃止され「天皇誕生日」(現在のみどりの日)に、十一月三日の「明治節」が廃止され「文化の日」が制定された。新憲法発布を記念して「憲法記念日」(五月三日)が新設された。
 一九五〇(昭和二十五)年には、シャウプ勧告に基づいて地方税法が根本的に改正された。改正の内容は、税の大半を国税として徴収し、市町村の財政力を算定して、その経常経費額に不足する金額を国費で交付するというもので、地方財政平衡交付金制度が新たに設けられた。それまでは、市町村の貧富により著しい格差があったが、この制度の発足以後はおおむね均質化されていった。またこの年に朝鮮動乱が発生し、国内産業は特需ブームで活気づき、疲弊していた戦後の経済は明るさを取り戻した。更に、警察予備隊(自衛隊の前身)も設置された。
 一九五一(昭和二十六)年には、戦争協力者として公職より追放されていた人々が順次解除され、政界・行政・教育等の現場に復帰した。また同年九月、サンフランシスコにおける日米平和条約が成立し、日本は六か年に及ぶ占領統治から解放され、独立国家となった。それに伴って、松山に進駐していた米英軍が撤退した。ドイツと異なり、米軍を中心に占領されていたことが、日本を分裂から防いだ。
 長い戦争で幾百万の同胞を失い、また六か年に及ぶ占領下において様々な事件を通して屈辱に耐えながら得たものは、主権在民の政治体制であり、平等と人間尊重の理念に基づく民主主義であった。

二 郷土の姿
 太平洋戦争は、「神国日本は必ず勝つ、神風が吹く」と信じていた郷土の人々が、初めて体験した敗戦だった。そこには、迷いとあきらめが交錯した一種異様な虚無感と、自分だけは生き残りたいという生への執着が共存していた。

(1) 傷ついた山河
 緑の山は強制伐採で裸になり、人手不足でほとんど植林はされていなかった。小川の流れは戦前どおり清らかであったが、護岸はたび重なる大雨で決壊したまま放置され、海岸道路は木材等での応急処置でようやく道路の状態を保っているありさまであった。また、わずかに残っているみかん園も、肥料と農薬及び人手不足で枯死寸前になっていた。

(2) 流   言
 米英軍が進駐してきたら、男子は即刻殺され、適齢期の婦人はもてあそばれたのちに惨殺されるというデマが飛び、一時は皆が恐怖におののいた。「鬼畜米英」と教えられ、それを信じて戦争遂行に尽力した当時の人々にのみ通じる、笑えぬ事実であった。

(3) 引揚者、復員軍人
 すし詰めになった貨物列車から故郷の駅頭に降り立った引揚者の衣服は、みなボロボロであり、手を引かれる子どもは栄養失調で泣き声すらあげなかった。髭面の憔悴しきった復員軍人が、ドタ靴にゲートル姿で黙々として帰ってくる。松根油工場や隔離病舎、はては火葬場の片隅までがみな改造されて引揚者の住宅となった。
 それが、当時の町村にできうる最大限の処置であった。

(4) 食糧難とタケノコ生活
 終戦の一九四五(昭和二十)年は、水田にウンカが発生したこともあり、郷土の米作は不作であった。翌昭和二一年は、長雨で麦が大凶作であった。五斗(約九〇・ニリットル)でやっと六〇キロ俵(普通は四斗(約七二・ニリットル)で六〇キロ)にして供出したとの記録があり、凶作に耐えて麦を供出した農家の苦悩がうかがえる。そうしたところへ引揚者や復員軍人を多数迎えたのだから、食糧難は深刻であった。
 一般家庭では、衣服や家宝の品々を食物と交換した。タケノコ生活である。つてを求めて闇米の買出しが日課となった。外米を含む一日一人当たり二合一勺(約○・三八リットル)の配給米ではどうしようもなかったのである。結局、戦時中に普及したイモやカボチャが代用主食となって、郷土の人々の命を支えた。塩田による自家用食塩づくりは続行され、たばこの代用品として野イチゴの葉を巻いたものがつくられた。
 配給米は昭和二十二年に二合五勺(約〇・四五リットル)となり、昭和二十四年に二合七勺(約〇・四九リットル)となって、ようやく食糧危機を脱した。

(5)放出物資
 旧日本軍保有の衣服や食料を横流しする不当なヤミ成金が出現したが、郷土の人々とは直接関係はなかった。ただ、役場をとおして旧軍服や米軍の古い衣服が配給され、外出用として着用された。また、石けん等の日用品が少量だけ特配された。

(6) 教育の混乱
 至上命令とはいえ、軍国主義的教育を行った教師たちは、一転して教科書の該当箇所を墨で消させて民主主義を説き始めた。教育は混乱した。更に、子どもたちが家庭で信頼する父母は、民主主義については無知に等しかった。
 戦後の混乱期に育った子どもたちも、戦争被害者といえるであろう。

(7) 金銭の封鎖とインフレーション
 個人のお金が封鎖され、農協等の金融機関を通して、毎月一定額だけ証紙を貼った紙幣が引き出された。のちに新円札と交換された)。紙幣は信用券であり、発行する国家が信用を失墜したら一片の紙に等しくなってしまう。当然、インフレーションの昂進をみるに至った。特に食糧と衣料品が急上昇した。一九四八(昭和二十三)年ごろは月給は平均五〇〇円で、米一升が五〇円、煮干しいりこ一俵が七〇〇円であった。衣料品と米・魚・麦、イモと石けん等々、ひそかに物々交換された。

(8) ベビーブーム
 復員者が続々と家庭生活に戻ってきた。すべてが不足するなかで、出生率だけが激増していった。昭和二十二年から二十四年まで続く、いわゆるベビーブームである。
 やがて、小・中・高・大学は順次増設を余儀なくされていった。

(9) 当時の娯楽など
 代表的な娯楽がラジオであった。「赤いりんごに唇寄せて…」のりんごの歌など、歌謡曲を次々に伝えた。若者はそれを口ずさみつつ、大地に鍬を入れた。町ではダンスが流行した。夜間は若い復員軍人を中心に、戦場のつれづれに習い覚えた素人芝居に興じた。役場階上で町直営の映写会も継続して行われた。
 後年、上灘町は、公益質屋を経営した。

三 議決機関
(1) 普通選挙の拡大
 一九四六(昭和二十一)年四月十日、改正法に基づいて第二一回総選挙が実施された。
 この選挙は、「婦人参政」という画期的改正による最初の選挙として極めて意義深い。また、二〇歳以上の日本人男女全員に選挙権が認められた。これらを行使して、日本は民主国家として再スタートした。
 また、昭和二十二年に市町村制が廃止され、地方自治法が公布された。行政執行者である上灘町長・下灘村長は、二〇歳以上の全町村民が直接選挙で選出した。

(2) 議決機関の独立
 戦前は、制限選挙で議員を選出して議会を構成した。また、議長には町村長が就任して運営に当たる一元的行政制度であった。そのため、町村長個人の人格や能力の可否が町村の盛衰に決定的影響を与えることとなった。
 一九四七(昭和二十二)年に地方自治法と合わせて議会法が大幅に改正され、町村民に直接選任された議会議員のなかから、正副議長を選任することとなった。更に、法律等に基づくもの以外は議会の議決を経てから町村長が執行することになった。緊急事案は町村長の専決執行が認められたが、後日議会の同意を要することが定められ、議会の権限が強化されて自治体における最高の議決機関となった。
 新法施行後の正副議長は次のとおりである。

四 執行機関
 戦時体制化に組み込まれ、その末端機関として協力していた役場職員は、大戦後、混迷する国・県のまさに朝令暮改そのものの指令等に振り回されつつ、行政の各分野において活動した。
 しかし、物資の統制は更に強化され、生産力の低下もあって衣料・食糧とも極度に減少した。多くの引揚者や復員軍人を迎えた郷土は、農村であるにもかかわらず、深刻な食糧不足に陥った。
預貯金は封鎖され、インフレの進行が加速し、農地改革等と連動して不安と不満が渦巻いていた。そんななか、役場職員は配給業務や転入等の窓口事務・未帰還者の消息調べ等に忙殺された。
 その上、六・三・三・四制が強行され、中学校を新設することとなった。新築するとはいっても、敷地の購入に始まり、整地・校舎の建築等を行わなければならず、疲弊した町村には大変な負担だった。他市町村では、学校建設の見通しが立たず、自殺した首長が出たほどである。一方、青年団や婦人会活動を核にした新しい公民館が創設され、活動を開始した。
 また、戦時中から道路や河川はたび重なる災害を受けていたため、順次それを改修しつつ、併せて上灘・豊田漁港の新設工事を続行した。これらの行動力は、文字どおり「よみがえる日本」を地方において実践したものといえるであろう。





上灘町議会歴代議長・副議長

上灘町議会歴代議長・副議長


下灘村議会歴代議長・副議長

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上灘町歴代町長・助役・収入役

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下灘村歴代村長・助役・収入役

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