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双海町誌

第四節 兵事

一 明治初期の兵制
 明治維新後、新政府は様々な改革を行った。徴兵令によってそれまでの封建的武士団を解体したことも大きな改革の一つだった。
 その経過としては、まず一八六八(明治元)年に陸軍編成法を発布、翌年に兵部省を創設して国軍編成の立案を命じた。更に翌年、各藩の軍事教育について陸軍は仏国式、海軍は英国式を採用するよう指示したが、このころの兵は未だ武士たる藩兵のままであった。
 そこで政府は、薩・長・土の三藩から一万人を徴して兵部省直轄の御親兵とし、この兵力をバックに一挙に藩兵解散、廃藩置県を断行したのである。
 明治五年、兵部省が分かれ、陸海軍両省が設置された。同年徴兵令が公布され、これによって満二〇歳に達した男子は、士族・平民の別なく兵籍に編入される、国民皆兵の近代的兵制が整えられた。
 しかし、当初は戸籍上の長男や官吏などは兵役が免除されていたため、制度上の不備に乗じて、戸籍上どこかの家の養子となって徴兵を逃れる者や、また、入隊後に訓練を嫌って脱営する者もいたが、順次制度が整えられ、解消されていった。
 愛媛県においては、一九七四(明治七)年、松山と西条に徴兵署が設置され、同年第一回徴兵検査が行われた。双海地域では郡中村の栄養寺が検査場となった。この検査で合格すると、兵種が決定し、同じ兵種中の甲種の者が抽選して、若い番号の者から必要人数だけ現役に服した。
 当時の双海地域は、広島第五鎮台下の管轄となっており、歩兵は丸亀、他の兵科は広島に入営した。服役年限は、現役兵として三年、予備役として四年の計七年であった。これは、明治十七年の松山歩兵二二連隊の創立、明治三十一年の善通寺第一一師団創立時まで続いた。
 こうして整えられた兵制によって、明治・大正・昭和と、様々な戦役・事変において多くの者が兵士となって戦地へと赴いた。そして、その犠牲となった者も数え切れない。しかし、昭和二十年の敗戦と同時に、役場の兵事関係書類の大部分が焼却処分されたため、その詳細を知るのは困難である。
 一八七七(明治十)年一月、征韓論に敗れた西郷隆盛は郷里の鹿児島で兵を挙げた。いわゆる西南戦争である。愛媛県においてこの事件は、三月八日付愛媛新聞第五四号の「愛媛県布公二七号」にて県民に報じられた。なお、この戦役には愛媛県内からも従軍者があり、二人の戦死者を出している。本地域からは上灘村の丸山徳太郎と大栄の武田宗太郎の二人が従軍したという記録がある。

二 日清戦争
 一八九四(明治二十七)年、朝鮮半島の支配をめぐって、朝鮮半島を足がかりに大陸進出をうかがっていた日本と、宗主権を主張する清国との利害の衝突によって日清戦争が勃発した。
 戦況は、近代化が遅れていた清国に対し、維新以来の近代化政策で軍事力を高めていた日本が黄海海戦などで大勝、翌年下関条約の締結となった。
 この戦争は、徴兵令の施行後初の外国との戦いであり、日本全国の軍隊の参加となった。郷土においては上灘村から二一人、下灘村から一〇人、計三一人の兵士が参戦し、上・下灘各一人が戦病死している。

三 日露戦争
 日清戦争後の下関条約によって、朝鮮の独立を確認、遼東半島、台湾、澎湖列島を割譲させ、日本の清国に対する発言権は増大した。
 このころ、世界経済の著しい進展とともに、各国の資本主義は、市場の独占、植民地の支配競争を加速化させ、世界的に帝国主義的色彩が濃くなっていった。
 こうした状況下において、東洋にその進路を求めつつあったロシアは、明治三十二年に起こった義和団事件に際して満州に兵を送り、事件後も撤兵せず満州の独占支配と朝鮮進出具体化に着手し、日本の利害と衝突するに至った。日本は日英同盟を結んでこれに対抗し、撤兵を強く要求したが、交渉は妥協点には達せず、一九〇四(明治三十七)年二月十日、日本はロシアに対して宣戦を布告、ここに日露戦争が勃発した。
 同年四月十九日、四国師団にも動員令が出され、歩兵部隊、機動特科隊がそれぞれ召集された。このとき、双海地域のほとんどの軍人は松山歩兵第二二連隊に入隊召集されたと思われる。松山第二二連隊は、その初陣として旅団長陸軍少将山中信義のもと高浜港より乗船し、出征した。そして同二十四日~二十七日に遼東半島に上陸、南山に進み三十日には半島両断作戦に参加した。
 連隊は、六月六日にはロシアの海軍基地である旅順攻撃のため新たに編成された第三軍に編入、乃木大将の指揮下に入った。そして善通寺第一一師団土屋光春中将に率いられて南進、旅順に迫った。その後、七か月にも及ぶ苦戦の末、旅順を陥落させた。松山連隊の目標として指示されたのは東鶏冠山で、八月二十二日払暁第一回総攻撃から、十二月十七日の最後の突撃で北砲台に松山連隊旗がひるがえるまで続けられた。なお、これらの松山連隊の出征から旅順攻撃の状況は、愛媛県生まれの軍人で日露戦争にも従軍していた桜井忠温の著書『肉弾』にも描写されている。
 更に、松山連隊は鴨緑江軍に転属し、清河城の戦闘、撫順の占領、奉天付近の戦闘などに加わり重大な役目を果たした。
 その後明治三十八年九月、アメリカ大統領ルーズヴェルトの仲介でポーツマス条約を締結したことで、この戦争も一応の決着となった。
 松山連隊は明治三十九年一月三日~五日に奉天を後にし、大連を経て十日・十一日に高浜に帰港した。
 日露戦争において日本軍の犠牲は甚大なものであった。郷土においては、上灘村から一二四人、下灘村から八一人、計二〇五人が従軍し、そのうち上灘村九人、下灘村六人、計一五人が戦病死している。

四 第一次世界大戦
 一九一四(大正三)年、オーストリア皇太子夫妻がボスニアで暗殺されたサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発した。当時日本は英国と同盟国であったことから、連合国側に参戦、ドイツに宣戦布告し膠州湾を攻撃、南洋群島を占領した。
 この戦争は大正九年まで続いたが、日本が参加したのは主に緒戦であった。郷土からの従軍兵士などに関する詳細な記録は現存していないが、下灘村で二人が戦没している。

五 シベリア出兵
 一九一八(大正七)年、ロシア革命の干渉を目的として、日本・イギリス・アメリカ・フランスがチェコ軍救出の名目でシベリアに出兵した。
 松山連隊は大正八年七月に高浜港より出発し、ウラジオストクに上陸した。大正九年一月に松山連隊第三大隊野中支隊によるヒローク地方などの討伐戦があり、四月には連隊主力によるドムノクリユウチェフスカヤの激戦があった。しかし同年六月に停戦協定が成立したため、九月七日~九日高浜港に帰着した。
 この出兵には、下灘村から一三人が参加、一人が戦死した。上灘村では二人が戦死している。

六 満州事変
 第一次世界大戦による戦争景気もつかの間、戦争終結後には経済は一変して不況となり、昭和に至って農村恐慌はますます深刻化していった。
 一九三一(昭和六)年九月、柳条湖事件をきっかけとして満州事変が起こった。松山連隊は、昭和七年二月二十七日に出発、上海方面の戦闘に参加し、約一か月後の三月二十九日帰港した。当時の軍部首脳はそれ以上の戦線拡大をしない方針であったため、速やかな終結となったが、現地の軍部の不満がやがて日中戦争を引き起こすこととなった。

七 入 営 式
 男子が徴兵検査に合格して入営するときには、親類組中・青年団などに祝福された。入営は人生の大きな関門であった。軍隊の飯を食って一人前の時代であったため、これを経験することは、結婚はもちろん、社会的にも大きく認められたのである。
 入隊するために家を出発するときには、皆が日の丸を持って村界や駅まで見送ってくれた。また、満期退営のときも同じように迎えてくれた。

八 日中戦争
 一九三七(昭和十二)年七月、北京郊外の盧溝橋付近で現地の日本軍が演習中に銃撃を受け、これを不法として中国軍を攻撃、両軍の交戦に至った。その後、日本軍は宣戦布告のないまま北京から上海、南京、広東へと戦線を拡大し、ついに全面戦争に突入した。
 郷土には同年八月に大動員下令が出され、松山歩兵二二連隊は八月二十日三津浜港から上海に急行し、十月三十日から羅店鎮での戦闘に加わった。
 十二月に首都南京を占領したころから、日本国内においても完全に戦時体制となり、国民の生活は軍事色に塗りつぶされていく。
 戦局は大陸全土に拡大され、長期化の様相を呈してきたため、昭和十五年九月、日本軍は戦争資源を求めて北部仏印に進駐した。松山連隊でも同年十二月、歩兵一二二連隊が組織され、昭和十六年一月に三津浜港を出港、台湾に上陸し、後に比島バタン作戦に参加した。
 こうして、日本は日中戦争から太平洋戦争へと突入していったのである。

九 太平洋戦争
 昭和十六年十二月、日本軍はアメリカ海軍の根拠地である真珠湾を奇襲攻撃し、米英両国に対して宣戦布告、ここに太平洋戦争が開始され、やがて男子の適齢者は次々と出征していくこととなった。
 日本軍は十二月中に香港を占領、翌年一月マニラ、二月にシンガポール占領と、緒戦においては有利であったものの、しだいにアメリカが反撃に転じ、昭和十七年八月にガダルカナル島を占拠され、続いて十八年五月にアッツ島、サイパン、テニヤン、グァム島も制圧された。そして制海・制空権をほとんど失った日本は激しい空襲に見舞われるようになる。
 昭和二十年三月、本土空襲がいっそう激しさを増していくなか、初めて愛媛県にも空襲があった。このとき人畜には被害がなかったものの、このころから双海地域の上空も連日B29が通過するようになった。
同年六月沖縄が占領され、八月には広島・長崎へ原子爆弾が投下された。そして同月十五日、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏したのである。

一〇 尊い戦没者
 戦時中の記録の焼却や遺族の転出等のため、不備な点もあると思われるが、大戦後、県及び県護国神社や町遺族会名簿等をもとに、当時の郷土の戦没者氏名を次に明記する。(図表参照)
 これから時代がどう変わっていこうとも、これらの尊い戦没者を通して現在があることを決して忘れてはならない。