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双海町誌

第一五節 幕末の動向

 幕末動乱期の最中の一八六四(元治元)年七月、都を追われた長州藩が、形勢挽回のため京都に出兵、京都守護職松平容保の率いる諸藩の兵と宮門付近で戦いとなった。いわゆる「禁門の変」である。この戦いにおいて、大洲藩士も三〇〇人余りが出動して宮内の守衛に当たり、これに参加した松山藩は帰路第一回長州征伐に参加した。
 一八六六(慶応二)年六月の第二回長州征伐では、京極高富を総指揮者に据えた四国軍は、松山大林寺に陣をとり、松山藩士一五〇〇人は三津から出発、大島に至って長州藩と戦った。しかし、大洲藩を始めとする四国の各藩は援軍を送らなかったため、松山藩は孤立し、興居島に引き揚げた。
 そして大政奉還後の一八六八(明治元)年一月、薩摩藩討伐を名目に京都に攻め上ろうとした旧幕府軍は鳥羽・伏見で新政府軍と衝突し、敗走することとなった。このとき松山藩主定昭は、幕府を助けて薩長と一戦交えようとしていたが、学者の三上景雄(是庵)の説得により老侯勝成と共に新政府に恭順した。
 この少し前、大洲藩は朝廷より松山藩追討の命を受けており、石河孫左衛門が一七四人の藩士と共に郡中に駐屯していた。宇和島藩も同様に、老臣桜田出雲が兵九五四人を率いて郡中に進駐した。また、新谷藩は三津浜の守りを固め、長州軍は全軍を三津浜に上陸させた。そして、長州軍隊長杉孫七郎が松山市内の常信寺において老侯勝成と藩主定昭と会見し、新政府への恭順を確認、一月二十八日には久万街道より進駐した土佐藩が松山城へ無血入城した。長州軍は松山藩に対して長州征伐の旧怨をもっていたので、もしこの時機を逸していたら松山城下は戦火を受けたに違いない。
 大洲藩は甲府の守衛に一小隊を派遣し、奥羽追討軍に参加した。明治二年に軍が帰藩すると、朝廷はその功を賞して金二〇〇〇円を大洲藩に下賜された。なお、松山藩は朝廷に対して一五万円の上納を課された。