データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

双海町誌

第一三節 藩札

 幕府が、藩札の発行を公然と許可したのは元禄年間が最初だった。しかし財政難打開を目的に乱発したため、価値下落の弊害があり、しばしば禁止・制限された。
 大洲藩は、一七四六(延享三)年十二月に銀札を発行した。郡中会所からは五分米預りを発行し、また、宮内才右衛門という人に個人発行を許している。これは藩公認の銀行のような制度である。
 松山藩では、六文をもって一分とし、拾分(六拾文)を一匁とし、拾二匁五分(七百五拾文)を一朱とし、四朱(五拾匁、三千文)を一歩とし、四歩(二百匁)を一両としていた。
 大洲藩では、青銅七拾文を銀札一匁とし、千匁をもって一貫目とし、更に銀札百匁を金壱両に替えた。このように、銀札と紙幣との差は、藩や時代によって大きく異なるものであった。
 松山藩においては、それとは別に手形を発行して士分以下の者に与え、禄米の受け渡しをさせたり、各種需要品を購入するために商人に引き渡したりしていた。
 一般農民の経済生活は、藩札や一文銭によってなされていた。また、物々交換や労働提供で大体事足りていたとも考えられている。農民たちは大判はもちろんのこと、小判すら見ることなく一生を終える者も多かったという。