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双海町誌

第四節 古墳文化と古代国家

 三世紀後半になると、近畿から瀬戸内海沿岸にかけての見晴らしのよい丘陵に周囲の集落や水田を見下ろすような古墳が出現する。古墳の築造には多くの労働力と進んだ土木技術が必要とされることから、小国の連合をさらに統合した強大な権力を握った司祭的な性格を持つ首長(豪族)があらわれた。中でも、規模の大きな古墳が近畿の大和川沿いに集中していることから、この地域に強大な力を持つ政治体ができたと考えられている。そのため、大和地方を中心に形作られた豪族の連合体をヤマト王権と呼び、その盟主を大王(おおきみ)と呼んでいる。
 また、日本列島には五世紀以降、朝鮮半島から多くの渡来人が定着するようになり、漢字や高度な機織りの技法、農業技術など中国の文化や技術が多く伝えられた。六世紀になると仏教や儒教・医術・易などが伝わった。ヤマト王権や地方豪族は、渡来人を積極的に活用して、政治力や経済力を飛躍的に高めていった。六世紀後半になるとヤマト王権は財政や支配のしくみを整え、朝廷と呼ばれる中央集権組織をつくりあげ、ここに古代国家が確立されたのである。
 政権が地方に浸透するにつれて朝廷は国と呼ぶ地縁的・行政的区域をつくり、国造という長官を置いた。この国は、後世の国よりはるかに狭くのちの郡くらいの大きさであった。伊予国には伊余・怒麻(野間)・久昧(久米)・小市(越智)・風早の五つの国造が置かれている。双海地域がこれらのうちいずれかの支配に属していたかどうかは分かっていない。