データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

双海町誌

第一節 旧石器時代

一 日本人の祖先
 地球上に人類が誕生したのは、およそ四〇〇万年前のアフリカ大陸とされている。最古の人類は猿人と呼ばれ、原人、旧人の順に進化し、およそ四万~三万年前に現代の人類につながる新人があらわれた。
 日本列島には更新世(約二〇〇万年前~約一万年前)のころ人類がいなかったと、日本の考古学界では長い間考えられていた。しかし、最近の調査では、岩手県宮守村の金取遺跡で四万年以上前の地層から石器三一点が、更に下層から石器九点が発見されており、この層が「八万年前より古い」という分析もある。また、長崎県平戸市の人口遺跡から発掘された石器は、光ルミネッセンス測定法で、九万年プラスマイナス一万一〇〇〇年の地層から出土したものであると発表されている。これらのことから、旧人が今の日本列島で暮らしていたと考えられている。
 旧石器時代にはたびたび氷期が訪れ、現在よりも平均気温が七~八度低く、海面が一〇〇メートルほど下がっていた時期が何度もあり、日本列島はアジア大陸と陸続きであった(双海町でも一九八一(昭和五十六)年に下浜の漁師が伊予灘でナウマンゾウの化石を水揚げしていることから、瀬戸内海も陸続きであったことが証明されている)。日本列島では、六三万年前に中国南部から移動してきたトウヨウゾウや、四三万年前に中国大陸北部から到来したナウマンゾウの化石が発見されている。東南アジアや中国にいた原人や旧人の兄弟がこれらの大型動物を求めて日本列島に移り住んだと想像する研究者もいる。いずれにしても、決め手となる人骨の発見は酸性土壌のため期待が薄いが、日本列島には新人が到来する前から日本人の祖先になりうる人類がおり、豊かな気候と豊潤な自然の恵みを生かした生活を営んでいたと考えられている。
 一九四九(昭和二十四)年に、群馬県桐生市岩宿で、一万年以上前の富士山の噴火によって火山灰が降り積もってできた関東ローム層の地層から石器が見つかり、今では、同じ時代の遺跡が全国五千か所で確認されるようになった。
 更に、骨が残りやすい石灰岩の地層から化石人骨が見つかり、静岡県の浜北や沖縄県港川などでは新人段階の人骨が発見されている。当時の人々は、小柄な骨太のがっしりした体格で、広い額と発達したほお骨を持ち、アジア大陸南方系の古モンゴロイドに属していることが分かっている。彼らが日本人の祖先と考えられ、その後の環境の変化に対応しながら縄文人となり、弥生時代から古墳時代にかけて中国や朝鮮半島などから渡来して定住した人々との混血を経て、現代の日本人となったと考えられている。

二 旧石器時代の文化と社会
 旧石器時代の人々は、血縁で結びついたおよそ二〇~三〇人前後の小集団を作って、水が求めやすく狩場に近い河川近くの見晴らしの良い丘陵や段丘の上に、簡単な屋根をかけたテント式住居や、中には洞窟などを住まいとして移動しながら生活していた。人々は、大型動物などの狩猟と木の実やイモなどの植物採集によって食料や衣服の材料などを手に入れていた。この時代には、狩猟用の打製石器が使われていた。

三 郷土の遺跡
(1) 東峰・高見遺跡
 一九九一(平成三)年、東峰地区内の果樹園丘陵地で、包蔵地が三か所発見された。続いて高速道路建設に伴って発掘調査が行われ、多数の石器が発見された。石器は、三万年前の地層から出土したもので、出土遺物遺構として公認された。石器のほかに矢じり等も各種あり、近くに沼地があったことから、そこに集まる動物を捕獲する狩猟基地だったと推定された。しかし、狩猟基地か、安定した狩猟場周辺に居住した跡地かは、更にその周辺を発掘しなければ確定はできない。いずれにせよ、この地に三万年前に人がいたと、科学的に立証された意義は極めて大きい。双海の人文史はここに始まる。
(2) 本村埋蔵文化財包蔵地
 本村集落の南上方、標高約二〇〇メートルの丘陵中腹緩斜面に、通称「沢の池」がある。「沢」の名称からも分かるとおり、沼地に立地しており、沼地の両側の樋口等に堤防を築いて、広い池にしたことは一目瞭然である。この周辺から角錐石器ほか九〇点が採集された。年代的には旧石器後期(約三万年前)から、弥生時代(約三〇〇〇年前)の遺物が混在していた。遺物の石材は赤色岩が主体であるが、チャートやサヌカイト、姫島産黒曜石(硬質で薄く剥離するので、矢じりや石包丁等に使用)も含まれている。
 これらのことから「沢の池」周辺には万単位の年代の昔から人が居たことが推察される。全国的な傾向にもれず、双海地域にも原始林と原野に多種多様な動物が生息していたと思われる。点在する沼地や河川の水溜り(ドンド)にやって来る動物を狩猟するため、姫島産の黒曜石を矢じりにした弓矢を携え、腰には大型動物と格闘する時のために石斧を備えていたであろう。
 また黒曜石の産地とされている国東半島の先の姫島といえば、伊予灘を経て九〇キロも西に位置している。当時は、丸木舟を使用したと思われるが、どの航路をどのようにして、双海地域に辿り着いたのであろうか。双海の原始はロマンに満ちている。