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双海町誌

第三節 人口

 双海地域の元禄年間(一六八八~一七〇三)の人口と世帯数は、大洲藩の記録によると、次のとおりである。
 ・上灘村…二〇五五人(男一〇三三人・女一〇二二人)、四一一戸
 ・高岸村…一三二〇人(男七九二人、女五二八人)、二六四戸
 ・高野川村…一三〇人(男七八人、女五二人)、三六戸
 下灘地区については、同時代の記録はないが、古城・社寺などの分布と記録や、明治以後の人口などから考察すると、当時は二○○○人程度と想定される。つまり、元禄年間の双海地域内の人口は総計五五〇〇人程度と推計される。
 明治時代になっても、前半は庄屋制から里正制、戸長制、上灘ほか二箇村役場、大久保ほか二箇村役場、上灘村・下灘村と行政変化が激しく、記録が分断又は重複していて、全町域の人口は明確ではない。
 一九〇二(明治三十五)年以後の世帯数や人口は次ページの表のとおりである。
 下灘地区の人口が明治四十五年に約一〇〇〇人減少しているのは、明治四十一年に石畳地区が分離した結果である。また元禄年間から昭和前期までは男が多く、一九四五(昭和二十)年ごろから逆転して女が多くなっている。これは全国的な傾向であり、直接的原因としては、男の戦病死が考えられたが、以後その差はほぼ定着するので平均寿命の男女差が主要因といえる。
 なお、大正後期から男女ともにやや減少しているのは、農村不景気による離村などが原因とみられる。有史以来、最大の人口を記録した昭和二十五年ごろは、太平洋戦争などで双海地域への疎開・移住者及び終戦による復員軍人が増えたことと、昭和二十二年から三年間続いたベビーブームの結果である。
 しかし国勢の安定に従って、疎開者や二男、三男は都市方面に職を求めて離町する場合が多くあった。更に昭和三十五年ごろからの都市中心の著しい経済発展により、長男又は一家こぞっての離町者が続出した。
 昭和三十五年以降は、人口が年平均約二〇〇人ずつ減少し、ついに昭和四十五年十月一日の国勢調査に基づき、過疎地域(過疎地域とは、五年間で一〇パーセント以上人口が減少し、かつ財政力の低い市町村をいう)に指定された。なお国は過疎地域に対して、地域の各種基盤整備などに多額の国費を投じて対策を推進している。
 現在、減少率はやや安定しているが、内容的には少子高齢化が年々深刻化している。二〇〇〇(平成十二)年十月一日の国勢調査では、全人口五四一七人に占める二四歳以下の割合が二一・五パーセントに対して、六五歳以上は三〇・五パーセントに達した。

 世帯と人口推移

 一九四〇(昭和十五)年は、一六五二世帯・八四五八人であったが、昭和二十年には一九四三世帯・一万九二五人、更に昭和二十五年では双海地域最高の二〇三五世帯・一万一三一四人となった。
 以後世帯数は、昭和三十年に一九〇〇台、昭和四十五年で一八〇〇台、昭和六十年には一七〇〇台となり、ほぼ同数で推移して現在に至った。
 人口は一九六五(昭和四十)年で九〇〇〇人台、昭和四十五年に八〇〇〇人台、昭和五十年が七〇〇〇人台、昭和六十年には六〇〇〇人台へと減少が続き、遂に二〇〇〇(平成十二)年には五〇〇〇人台になった。平成十五年の人口は五四四六人で最高時の半数以下になった。
 このように人口は全集落で減少しているが、世帯数は中央部と周辺部では異なる傾向を示している。
 上灘地区では灘町・本郷集落で増加。両谷・久保・唐崎集落がほぼ同数で周辺集落では減少。中でも、奥集落は消滅し、二集落は一〇世帯を割った。
 下灘地区でも、上浜・下浜集落の中央部がほぼ同数で、池之窪・本村集落がやや減少し、周辺部はかなり減少、二集落は一〇世帯を割っている。
 両地区ともに周辺の集落は世帯数・人口ともに激減し、かつ高齢化は深刻だ。実効ある対策こそ「町づくり」の最たるものであろう。


双海地域の人口と世帯数の推移

双海地域の人口と世帯数の推移


性別と年齢層別人口の比較

性別と年齢層別人口の比較


年齢別人口

年齢別人口


町内各地区の人口と世帯数の推移

町内各地区の人口と世帯数の推移


双海地域の人口と世帯数の推移

双海地域の人口と世帯数の推移