データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

森井 苫三郎 (もりい とまさぶろう)

 明治一三年(一八八〇)七月二八日伊予郡中山町大字中山戌六六八番地で父松太郎母イシの長男として生まれる。
 若くして農林業を継ぎ多くの弟妹(郡会議員山村辰治郎、産業組合長亀岡浪吉等)の長兄として家業に専念すると共に、耕地整理、水田開発、溜池築造等土地基盤整備に取り組み実績を挙げた。
 昭和四年三月一一日中山町議会議員就任、国鉄誘致委員に選任される。時代感覚と先見性に富んだ氏は、「中山町の文化の進展、産業の振興は、国鉄の開通なくしては望まれない」と若い頃から国鉄誘致運動に取り組んできた。同二年四月松山市まで国鉄が開通したことと、国鉄誘致委員就任とによって決意も新たに誘致運動に立ち上った。
 しかし当時国鉄内山線誘致の環境は厳しく、特に犬寄峠が難工事とされ、海岸線との比較測量においても、海岸線が優位にあった。氏は私財を投じ独自に委託測量を実施し、その結果を携えて上京陳情を実施したが採択には至らず、やがて国鉄は昭和五年郡中町へ、同一〇年海岸回りで長浜町まで開通し、氏の国鉄誘致の夢は挫折の苦汁をなめることとなった。
 戦後昭和二三年老境を迎えた氏は、内山線の優位性を信じ生涯の夢とした国鉄建設運動に余生の全てを捧げることを決断し、ただちに行動を開始した。同二五年には有力代議士の理解と知遇を得るところとなり、同二八年には沿線一四町村当局を動かし、運輸省に対し戦後第一回目の陳情を実施することができた。
 白髪で常時和服を着用し古武士然とした氏の情熱は高齢となっても衰えをみせず、豪農といわれた資産はこの運動のため次々と費消されていった。当時町内ではこのような氏を評し、「鉄道気狂い」と言う人々もあったという。晩年は歩行困難となり、次男の引くリアカーに乗って運動を続け、病に倒れて入院加療中も陳情書の草稿に筆を入れる毎日であった。当初夢物語とされた内山線建設運動は、順次関係町村当局と住民の理解と協力を得、同三一年国鉄新線内山線建設促進期成同盟が結成されて、運動は軌道に乗り、三〇年後の同六一年三月三日国鉄内山線は開業した。氏はこの喜びの日を待たず、すでに昭和三三年五月二七日、七八歳で没していたが、鉄道建設の父といわれる。