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中山町誌

妻鳥 暁太郎 (めんとり ぎょうたろう)

 氏は明治一九年(一八八六)三月二七日妻鳥市次郎の長男に生まれ、中山小学校高等科四年の課程を優秀で卒業した。
 明治三三年一四才にて、小学校尋常科正教員の検定試験に合格し、翌三四年出淵尋常高等小学校教員を振り出しに、昭和一八年五七才で退職するまで実に四〇年余、子弟の教育に専心努力した。
 以後中山郵便局に勤め昭和二四年に退職した。昭和二五年より内子高校に習字指導の講師としてしばらく勤め、昭和二七年六六才にて死亡した。その間大正二年八月川崎神社の宮司に補任され、神社の維持経営に努力し氏子の指導に勤めた。氏は極めて多芸な人物で、二四才の時中山行進曲を作詞作曲し、明治三四年以来中山小学校運動会の出し物として広く町民に親しまれている。その他多くの作詞作曲を手がけ、またバイオリンの演奏も独学で行った。昭和六年には習字の文部省検定試験に合格し(四国で二名)、愛媛県師範学校等幾多の上級学校から招聘された事もあったらしいが、辞退して郷土の教育に専心した。
 書道の大家、現芸術院会員鈴木翠軒や日展審査員炭山南木等と親交があり、書聖といわれた故川谷尚亭の指導を受け、その伎倆を高く認められていたという。また文学を愛好し、特に俳句において糸瓜中山支部を結成し、富安風生等を再三中山町に招き、俳都松山と比肩される程隆盛をもたらした。そして氏の一句も明治・大正・昭和の三大句集に選ばれている。『大淀の葦の中道冬ひばり』
 氏は無欲恬淡、明朗そのものにて誰にも親しまれるユーモアを持ち、婚礼命名等他人の世話も数多くした。趣味も広く庭球・釣りもよくし、茶の湯・活花・漢詩・短歌・水引き等も特技であった。氏はまた読書を好み、地理や歴史にくわしく郷土誌の研究にも熱意を持ち、酒を好んで酔う程に若人に対してこれらの趣味を目を細め、まゆを「八」の字にして語り聞かせたという。