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中山町誌

橋本 友重 (はしもと ともしげ) (月登)

 氏は明治三二年(一八九九) 一一月一五日伊予郡佐礼谷村一五八番地に藤原辰蔵の次男として生まれた。後、橋本家の女婿になった。
 青雲の志を抱き故郷を離れ苦学を重ね、京都帝国大学臨時教員養成所を卒業し教員となった。太平洋戦争に従軍したが、戦後は私立松山城南高等学校で教鞭(国語)を執り、松山に居を定めた。氏の俳句による業績は大きく、俳号を「月登」という。佐礼谷の「むささび俳句会」の主幹を戦後の昭和二二年から五四年(死亡の前年)まで務めた。
 月登の俳句は、生涯中村草多男を師とした。二九年草田男の句に魅せられ「萬緑」に入会し、その後、萬緑松山俳句会を創設し、萬緑同人に推され、俳人協会員となり、遂に待望の萬緑賞を受賞した。また、俳誌「海香」を発刊し、句集「遠嶺」を刊行している。その間、深く豊かな学識と人生体験とをもとに、毎月一、〇〇〇句以上作句し続けた。また、一面情誼に厚く、人から受けた恩は忘れない人柄だったともいわれている。
 二〇余年にわたり「むささび俳句会」の主幹として、遠く松山から毎月の例会に出席した回数は実に四〇〇回にも及んだ。会の発展と後輩の指導に注いだその情熱は他に類例がない。
 むささび俳句会員の有志は相図り、氏の功績を後世に残すために母校佐礼谷小学校に句碑を建立した。
 「師弟が仰ぐ遠嶺の初雪夕日背に    月登」
 俳人月登の面目躍如たるものがあるといえよう。
 昭和五五年一一月一五日没、享年八〇歳。