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中山町誌

中岡 伝吉 (なかおか でんきち)

 氏は明治一二(一八七九)年二月三日中山町出淵に生まれた。温厚篤実な性格で名利には恬淡、常に公益を願っていて社会奉仕の念が篤く、率先してこれに努力貢献した。
 明治三七年、八年の日露戦争に従軍し、勇敢無比、決死の戦功によって勲八等に叙せられ金二〇〇円を下賜された。戦後大陸発展を志して朝鮮に渡り、公州に居を定め大変な苦労の末農事を経営してその成果を大いに挙げた。
 以来年と共に在住日本人は元より朝鮮人の間にも声望が高まった。それ故、公州地区において各種の公職に推され、公共事業に数々の貢献をなしたといわれる。
 また氏は常に郷里中山町の事を忘れず、特に教育には意を尽くし、巨費を投じて中山小学校に講堂を建設し、これを本町に寄附した(完成昭和一二年二月一一日)。堅牢無比、壮麗な大講堂正面の氏がわずかに微笑んだ肖像を仰ぐ生徒等が、氏の後を享け、中山町発展の原動力となった。
 氏は朝鮮で成功し、堅い地歩を築いていたが、たまたま太平洋戦争の終戦に当たり巨額の蓄財を失い、空しく故郷に帰った。故あって中山町には居を置かないで九州博多に行き、昭和二五年一二月三〇日福岡市で天寿を全うした。盛景寺墓地に墓標一本「中岡伝吉翁の墓」と祭られていたが、長年の風雪にさらされ倒れ傾いた。それを起こしては清掃する児童達の姿を見かねた中山小学校PTAによって、昭和五二年二月「中岡伝吉翁供養塔」が建立された。