データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

豊谷 大治郎 (とよたに だいじろう)

 氏は安政五年(一八五八)八月五日長岡与三郎の次男に生まれ、明治一八年(一八八五)豊谷家の養子となった。一八才で月給一円五〇銭の臨泉小学校教員となり、明治二〇年桑原探底禅師の後をうけて中山尋常小学校長に就任、明治二三年二月中山村助役となったが、同年四月より出淵尋常小学校、泉町尋常小学校、中山尋常高等小学校とそれぞれの校長を歴任、明治三七年五月退職するまで二〇余年間子弟の教育に従事した。その間、生徒の増加によって校舎の増築、校地の拡張に追われその運動に奔走し、不備な設備の中で諄々と、週番日番を定め生徒の世話をさせるなど内外に教育の実績を挙げ、退職後も学務委員として教育界に貢献した。
 明治四二年一月推されて村長となり、中山・出渕両村合併後の諸問題の解決、道路開通などに尽力、中山校本館二階建校舎の新築と運動場拡張を計画、四三年七月これを完成し「校舎設備大いに面目を一新してまた昔日の比に非ず、長く民家を仮用せし児童収容し教授管理訓練上多大の利便を得」と同校沿革誌にあるように本町教育史上一時期を画した。また、学校側、学務委員などと共に各地区の父兄母姉懇談会に臨み「畳破すも子供破すな」と教育の重要性を説き、明治四四年一月村長を辞任。地元の推薦をうけて大正元年郵便局長の職に就き、地方通信事務に尽瘁する傍ら教育後援会を組織育成、大正一二年中山小学校開校五〇年記念式で教育功労者として表彰された。
 氏は碁・将棋・謡曲・茶道・盆石と趣味多く特に読書を好み、七三才緑内症で失明しても新聞・書物を読んで貰い時勢に遅れぬ事と知識の吸収に努めた。病苦の救いを呪に求めその術を会得、治療を願う患者にそれを施し、氏によって救われた人も少なくない。
 「正直に生きる」を信条に清廉潔白、誠実に、快活に、一生を貫き、人格者と尊敬され昭和二一年(一九四六)九〇才で生涯を閉じた。