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中山町誌

太森 只衛 (たもり ただえ)

 氏は嘉永五年(一八五二)一二月二五日、善衛の長男に生まれ、明治一二年家督を相続、明治二三年町村制実施と同時に出淵村村会議員となり、収入役を経て明治三九年四月出淵村長に就任、中山村との合併の議紛々たるを円満に解決し、四〇年一月一日旧中山村を誕生させ、第一期の村長となった。以後大正一五年(一九二六)九月一八日七六才で死亡するまで、村会・郡会議員、学務委員、常設委員、社寺総代等を歴任。耕地測量、出淵・野中両校の建築、郡有林の増殖、役場新築と登記所の移転配置で村民の便を図り、出淵中山両校を合併し村民の負担を軽減。久万~中山線、中山~下灘線、永木~幟立線等道路の開通、村立病院の設立、国鉄貫通の機運釀成、寺・神社の新築などに尽力、伊予農業銀行・大洲商業銀行支店設置に努力、両行の相談役となり、産業金融の発展を企図、思想悪化の救済に信仰会を組織し、思想の浄化に努めるなど各方面に業績を残した。
 氏は資性温厚孝心深く、父母と野に出た時は必ず夕方早く帰って夕食を共にし両親の床に就くを見、再び野に出て寸暇を惜しんで働き、遊惰な青年には「野に行け、そこには仕事が我々を待っている」と勤労を勧め、山野に開墾に適した広大な土地の遊んでいるのに目をつけ「僅少の面積を耕して肥料するより広大な土地を開き地力によって増収を図れ」と大農の必要性を強調した。「千人の股をくぐるとも一人の肩を越すな」を理想とし、村内の慶弔には中心となって世話し、請われるままに諸願届を書いて与えるなど他人の為に尽くしたので、氏の家には来訪者が絶えなかった。村内に紛争事があると賛否双方から氏の意見を聞きに来、反対の立場にある人も、利欲私心を離れ公共の事を重んずるその説に共鳴し、「太森がこう言った」と言えば誰でも異議なく賛成したほど村民に信頼された。昭和五年四月二九日氏の徳を慕う村民の浄財によって頌徳碑が建立された。