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中山町誌

窪中 友吉 (くぼなか ともきち)

 氏は天保一四年(一八四三)八月一四日中山町二川登船田家に生まれ、八才の時、影之浦の叔父窪中石五郎の養子となり、よく養父母に仕え、農業に従事し勤倹力行ひたすら家運の挽回を図った。一八歳で影之浦区長に選ばれ、明治二三年町村制施行と同時に初の出淵村村会議員となり地方自治の土台を築き、明治三五年出淵校の増築、野中校開校などに尽力した。明治二六年より学務委員として教育に意を注ぎ、明治三一年出淵村助役に就任在職九年村長と一体となって中山、出淵両村の合併、耕地の測量その他数々の問題を解決、以後も村会議員、神社総代・寺総代などを務め、昭和一二年七月一二日八八才で死亡した。
 氏が青年時代、葉煙草の栽培が盛んな影之浦では、製品をオイコで背負い峠を越えて総津の納品所へ運ぶという重労働があったが、氏はこれを一括購入し一般栽培者に大変感謝された。反面それによる農作業の遅れを取り戻す必要から、早朝より夜間に至るまで人一倍働いた。こうした考え方で終生無駄なく働き続け、一寸の空地も地形によってドハや石垣を築き耕地を増やし、当時としては珍しく植林に励み他人にこれを奨励した。健康な身体と強固な意志を持ち「世の為人の為」という考えを常に年頭に置き、病人その他気の毒な者に物心両面の激励を与え救済の道を講じたり、紛争事をよく手際よく円満に解決して多くの人から感謝された。
 「人は各々胸の中にカンカン(測量器)を持っていていつも人の価値を計っているから毎日の言動によく気をつけねばならん」と人にも教え自分でも注意し、酒をたしなんでも常道を逸する事はなかった。晩年歩行困難になっても暖かい日には竹筒にこぼれ籾を拾い「穀物は年に一度しか取れないのだから粗末にしてはならん」と口ぐせのように言っていた。