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中山町誌

城戸 庄五郎 (きど しょうごろう) (七代目)

 城戸家は中山町永木区にある旧家で庄屋も務め祖先以来今に庄五郎を名のっている。七代目は明治元年九月一〇日上灘村生まれで西尾卯吉と言ったが明治二六年城戸庄五郎を襲名した。
 七代目は表面的な華美を嫌い、名より実をとり、思慮深く、万全を期する性質で常に国家社会への奉仕の念を忘れず、公共的事業に数多く貢献した。
 氏は人間がやがては空を飛ぶ時代の到来を信じ、明治二六、七年頃寝食を忘れて研究発明に没頭し過労のため健康を害した。また水害旱害を防ぐため城戸家の広大な山林の立木、竹伐採を禁じたりしたので現在もこの地方ではその恩恵に浴している。また近く大戦があるらしいと聞けば梅干の必要な事を思い、三七、八年の戦役には夥しい梅干を献納した。日露戦争が起こると日本の勝利を得るには神の加護を得ねばならぬと行水し、いかに冷たい冬でも一日もかかさず川に通って戦勝を祈願したといわれている。明治三六年には天保七年以来の麦の大不作があった。氏は内心飢饉の予感を待ち、それからは米一俵も売らず自分も麦粟を食べた。そして米を三年間倉庫に積み、最悪の場合には進んで部落民を救う覚悟であり、その量は永木部落の全員が数ケ月食べて余る程であったといわれる。その間私心全く無く、大正八年の米騒動に際しても「城戸家の米は飢饉の際窮民を救うもので時の相場で動かす米でない」と言って商人を寄せつけなかったといわれる。氏は酒を飲み酒豪であったが必要な時は禁酒をし、その金をたびたび寄付した。
 また永木は山間で水泳場がなかったので子供達のためと独力で水泳場の工事に取り掛ったが、完成を見ず昭和一一年九月一日六九才で他界した。他にも消防組の設置活動に尽力し多額の金を寄進して、ポンプ・消火用具を部落に家庭に設置させた。氏は特に道路新設に努力を払い、大金を投じ、奥田、鷹尾、八代目城戸、宮岡の努力と相俟って永木校下の県道、町村道を建設した。