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中山町誌

奥村 唯治郎 (おくむら ただじろう)

 氏は明治四年(一八七一)一二月一日中山町泉町のかなり裕福な呉服商奥村家の長男に生まれた。生まれつき利発で群を抜き、向学心の極めて旺盛な人物であった。当時の中山臨泉小学校長桑原探底禅師に教えを受け、一人残って静かに漢学を学んでいたという。
 氏は己を信じる事強く『思うこと成らざるはなし』と言う実行型の人物で、誰とでも交流した。中庸を地味に行く性格ではなかったらしい。三〇才の若さでしかも小学校卒業のみの学歴で、旧中山村長に選ばれ、若手村長として着々と村行政の改革を行った。
 先見の明に恵まれ、この町を伝染病から守るため当時としては大英断で、旧隔離病舎(場所は現在の中山保育園)の建設を企画し、県関係当局へ補助を願った。氏は県よりの交付金を確信し着工に踏み切ったところ、交付金獲得は不首尾に終わった。計画通り事が成ったのは堂々とした隔離病舎のみとなった。しかし、コの字型の広大な病舎は、後々大流行して町中を苦しめたチフス・赤痢等種々の悪病患者隔離に役立った。「願わざる喜び」とはいえ氏の不屈の実行力は永く讃えられることであろう。このため全責任を負い、奥村個人の財産を投じてこの収支を決済したといわれている。そして村長一期をも終らないで職を辞し、三三才で当中山町を引き払い東京に出て法律の勉学を志し、弁護士・判事を夢みながら、三年ばかりの学業半ばにして病没した。
 当時中山村政は群雄割拠、勢力争いがはなやかであった。その中にあって、弱冠三〇才の氏が村政に新風を吹き込んだ功績は仲々大であった。良否は識者の判断に待つとして、氏は人に語って「人にはそれぞれ天分がある。この天分を知り自信を持って己の能力を存分に働かすのが生き甲斐のある人生だ。私も実業の呉服業を継ぐより大きな広場に出て、己の力を存分に発揮してみたい」と言っていたという。法学士を目前に夭折したのは誠に残念でならない。