データベース『えひめの記憶』
中山町誌
三、 永木地区
⑤ 宝篋印塔一基・五輪塔一基
所在地 永木三島神社御旅山
管理者 三島神社宮司
塔高 印塔 一二〇cm 五輪塔 九八cm
由来等
応永九年(一四〇二)頃の永木地区では、合之森城(高森城)の城主であった合田通基が勢力をもっていた。その後天正一〇年(一五八二)土佐の長曽我部勢の来襲により衰亡、後天正一九年より文禄二年には城戸右京亮が城主となり天山城に転じたと伝えられている。
合田通基の墓と伝えられているこの宝篋印塔は、現在、永木小学校前の駐車場になっている所に安置されていたが、明治四〇年頃に上田庄三が石塔工作場を建てるため、当時の三島神社宮司であった寺井哲心によって現在の御旅山に移転されて祀られたという(長老より聞く)。
⑥ 合之森城址の石塔・お室
所在地 永木合之森
管理者 山下静雄
塔高 石塔 五九cm
お室 五九cm
由来等
合之森城址は合田通基の居城であったが、その一郭に石塔がある。由来は定かでない。お室は御旅山に移転された合田通基の墓の跡地に、寺井哲心(三島神社宮司)により石造のお室を建て祀られていたが、また小学校講堂を移転する際、現在の位置に移され近所の方々によって祀られている。
⑦ 五輪塔 五基
所在地 福住 松本芳雄宅横
管理者 金本幸盛
塔高 五基とも異なる
由来等
五輪塔は墓地と思われる小高い所に安置されている。由来は定かでない。長さ一〇メートル、巾八メートル、高さ二メートルの小型の丘は、古墳を思わせる、珍しい墓地である。