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中山町誌

一、 俳句

 中山村の俳句は、今より一九〇年余り前の江戸時代、享和年間(一八〇一頃)から始まった。大洲藩士田辺文里が泉町あたりに閑居、寺子屋を開き、同志を集めて指導するようになった。文里は芭蕉の研究者としても有名であり、享和三年伊予全体の俳人の句が集められている「俳諧友千鳥」に中山社中一〇名の中の筆頭としてその名が残っている。
 この文里の句碑が、平成五年夏、中山町文化協会と有志および中山町の後援によって泉町一の浄光寺に建立された。その句は「里やあるけふり横たふ秋のくれ」で芭蕉塚と並んで建てられている。この芭蕉塚はいつ頃誰によって建立されたかは定かでないが、芭蕉の母が宇和島の出身と伝えられていることもあって、伊予で俳諧が盛んになり、本町にも昔から熱心な人達のいた為であることが推察される(同様の芭蕉塚が久万町の大宝寺にもある)。
 また、調査しているうちに、文里以降のことについて次のような発見があった。一つは、中山町において古句集や絵天井が見つかったこと。もう一つは、他の市・町・村の資料の中に、中山地方の俳人について記されていることがわかったのである。加えて、それらのことを調べるため県立図書館、子規記念館で調査を続けるうち、おおよそ次のようなことが明らかになった。

 浄光寺の天井の俳額
 中山町泉町一丁目の浄光寺の本堂の格天井には、一四四枚の絵が描かれてあり、その中の約三分の二には俳句が書いてある。
 この絵天井は、弘化年間(一八四六頃)に作成されたものと推測できる。
 その昔、ここで盛大な俳句大会(俳諧)が催されたようだが、惜しいことに長い年月を経ているため、中山町の俳人の存在は定かでない。ただこれ程の規模の大会の開催において、地元の俳人が何人か参加したであろうということは、容易に推測できることである。
 文里の活躍より約四〇年間、中山町の俳風は盛んであったと思われるが、今では確認することもできず、古文書が共に残存しておればと実に残念である。

 俳誌「伊予寿多連」時代のこと
 「伊予寿多連」は、広田村満穂の庄屋、日野林樵柯か編集したものといわれており、嘉永元年(一八四八)頃のものである。
 日野林樵柯が編集した「伊予寿多連」は伊予一国の俳諧書でもある。内容を見ればすぐわかることであるが、東は西条、西は宇和島に至るまでの俳人が載っている。この俳誌が中山町に残存しており、中山の俳人が載っていることは、少なくとも二つの点について極めて貴重な資料といわなければならない。一つは、文里の頃から明治俳句へのつなぎである点、もう一つは他の地方との関係を知ることができる点である。
 以下「伊予寿多連」に載っている代表的な俳句を記載する。原文は、変態仮名・万葉仮名で読みにくいため、現代風に書き直したものを載せることにする。
(原文は写真参照のこと)
 ・藻がくれにうおのきへたるあつさかな  渓山
 ・打ち水改む風の月夜かな         渓山
 ・しら浜や塩魚干せば啼く雲雀       筆山
 ・里入りや駕よりおりて若葉晴れ      嘯風
 ・抱へ行く鋤から落つるたにしかな     貴冬
 ・五月雨の匂ひがするぞ船の飯      啼風
 ・雨の夜は上を飛ぶのかほととぎす   〈草冠+桑〉玉

 「大洲短冊帳」にでている中山の俳人
 伊予史談会創設時の一員である西園寺富永の集めた短冊の中に、中山町の俳人が何人かいる。この中に入る位であるから俳句の実力があったと思われるが、年代は定かでない。

「大洲短冊帳」抜粋
     大洲ノ人、玉山 玉井宗三郎
・狗脊一巻もとる霄の雨
     中山村 (伊与人力)魚村渓山
     耕智荷風 大洲人 通称雄一郎
・呵られし時なつ敷や盆の月
     大洲領中山町 高田素分
・里やあるけふり横たふ秋のくれ
     大洲中山町 家中 暫時舎 田辺文里
・死送るやいくつかさなる秋の山
     寛政六年秋書
     大洲中山町医師 二宮道帯男 文斉(止由)
 
 何人かのすぐれた俳人が、いくつもの時代にも出現していたようである。

 明治以降の中山俳句の変遷
 厳島神社に奉納されている俳額は、九九枚を数える程多きに上る(幅三メートル七〇センチ、高さ八〇センチ)。往時の隆盛が偲ばれるが、残念なことに、墨色もうすれ俳句も氏名も定かでない。
 以上述べたように、田辺文里に起った俳句(俳諧)は時代の流れに応じながら伝統を保ちつつ、明治時代へと引き継がれたのである。
 明治初年頃には、中山村の郷士玉井九郎右衛門が日本画と発句をたしなんでいた。また明治三〇年の初め頃に、出渕村の村長高市有燐が発句をたしなんでいたという記録もある。
 明治四〇年代に子規の門人であった下村牛伴(画号は為山)が来町、医師の中村八弥宅で句作したり画を描いたりして二ヶ月余りを過した。その頃同好者が集って俳句の指導を受けている。その後俳句に親しむ人達が次第に出てきたが、その主な顔ぶれは中村八弥・玉井松雨・徳島冬翠・橋本青水・山本隆枝・玉井竹露・平松将哉・松井鉄男・山下一渓・妻鳥暁天・阿部拳子・灘岡将一・北岡源宇などであった。
 為山の来町を記念して、昭和三四年七月泉町一の宮嶋さん(厳島神社)の境内に句碑が建立された。この句碑は中山町内の第一号となっているが、句は珍しく全部漢字で書かれている。
   「新涼也灯豆羅年亭市差可理 為山」
 宮嶋さんの夏祭りを詠んだもので、当時の祭りの賑やかさが偲ばれる。この句の建立を提唱、尽力したのは、日南登鉱山に勤めていた立花美考(大生の父)であった。
 明治の終わり頃の中山村の俳句の師系は、ホトトギス派が主であった。その当時松山に「松山松風会」を結成した野間叟柳の指導を受けている。明治四一・四二年頃には玉井松雨・中村八弥を年長として「さくら会」があり、叟柳と仙波花叟の指導を受けていた。
 明治三四年松前出身の忽那快風(政市)が、永木小学校に一ヶ月奉職していた。松根東洋城の渋柿同人として活躍しており、またホトトギスにも投句、虚子選の上位を占めたりしていた。平成五年三月に永木小学校の旧校門跡に快風の句碑が、町文化協会と有志および町の後援によって建立された。
   「昼寝起柝とりあへず打ちにけり 快風」
 大正時代に入って中山町にも渋柿支部が出来て、松根東洋城が宇和島へ帰郷の際、足を止めて指導に当たっている。またその際、松山より村上霽月が駆け付け盛景寺などで盛んに句会が催された。
 霽月と東洋城の句碑も町文化協会と有志、および町後援によって建立されている。
  「黄昏の春を中山泊哉 霽月」
 中山町総合農業センター玄関わき、平成三年一〇月八日
  「茄で栗を峠で買ふや二合半 東洋城」
 遊栗館入口、平成六年五月一八日
 昭和に入って、内子町にいた中山町泉町出身の獣医灘岡将一が、内子町の俳人と交流を計ったり大洲町に出かけて渋柿誌友との句会を開いたりしていた。
 昭和一〇年頃妻鳥暁天(暁太郎)らが、中山町派出所巡査部長宇都宮一峰の勧誘により、越智郡の宗匠為水の黎明誌に投句、中山吟社を結成したが短期に終わっている。その後松山の糸瓜誌の支部が誕生、森薫花壇・篠崎可志久・丸田南天朗らが度々来町していた。糸瓜の雑詠選者が富安風生であったため、中山町からもたくさんの投句者が出るようになった。
 昭和一一年頃妻鳥暁天が糸瓜同人であり、糸瓜誌の主な投句者は次の顔ぶれであった。
 岡田蛙村(操)・北岡玄雨・野村十又・植田翠峡子・立花美考・宇都宮一峰・亀本江月・はま女・仙波玉翠(雅子)・上田妖影(徳雄)・阿部拳子など三○名余りがいた。昭和三一年頃からは、立花大生・鎌田梨陽(利夫)、一五年頃から高橋良女などが加わった。
 昭和一六年太平洋戦争が勃発すると各俳誌共刊行もままならず、やがて戦局も険しくなったため、糸瓜誌なども休刊のやむなきに至った。戦時中は各会員の短冊を揮毫し、一口十銭の拠金を計り皇軍慰励に力を入れたりして、陸軍大臣より感謝状を受けたりもした。また河東碧梧桐の来町を得て、納涼俳句大会を盛景寺で開いたりしたが、時の流れには逆らえずお互いで静かに句作する外はなかった。しかし、時々品川柳之などが来町指導に当たっていた。
 (註・前記の句碑建立の町文化協会には中山俳句会・秦皇山句会・佐礼谷のむささび句会の三句会が含まれており以後掲出するものも同様である)
 敗戦により打ちひしがれた日本国民の心はそれぞれの心の寄り所を求めていた。テレビなど無い時代であり娯楽とて少ない時代でもあった。そんな時俳句はお互いの心に光明を与えるものとなったようである。自由に自分の思いを詠むことが出来、そして片田舎にいても全国の多くの人達と交流が出来るコミュニケーションの場でもあった。中山町の俳壇は昭和二〇年代に至り花開くものとなった。
 昭和二一年五月、かつて糸瓜同人であった品川柳之が松山より俳誌「雲雀」を発刊した。ガリ版刷りの三〇頁のものではあったが、雑詠選者に富安風生を迎え、戦前の糸瓜投何者や新しい人達も多く投句を始める様になった。
 朝鮮から復員して来た添賀出身の井上三余が、日南登に居を構え中山農協へ勤めるようになり、近くに住んでいた岡田蛙村らと度々俳句会を開くようになった。俳句会場は主に蛙村宅であったが、盛景寺・農協・公民館や句友宅などでも開かれた。
 雲雀で勉強して、全国誌である「若葉」へ投句する者も出始めた。やがて、巻頭作家なども出るようになり、全国的にも中山町の俳人が注目されるようになってきた。すると人々は競って勉強するようになり、松山での大会や、近郷の町村の会にも度々出席するなど熱心な人達が増えてきた。
 昭和二〇年代の作家は次の人達であった。
 井上三余(正典)・妻鳥暁天(暁太郎)・岡田蛙村(操)・北岡玄雨・立花大生・高橋良女・鎌田梨陽(利夫)・福岡三品(虎一)・岡田風花(脩哉)・橡木春翳(忠男)・後藤冬芝(要)・笹田亀峰(泰雄)・宮田忍冬(広志)・立花美考・立花柾子・清志・鷹尾青芝(雅司)・北岡小筵・井戸十三夜(詮)・桑芽・城戸山梔子・宮岡柳絮(恒雄)・西山木犀・入山行々子(武味)・岡田光江・岡田章・内田洋生・高橋一公(一松)・俊子・上田妖影(徳雄)・灘岡露生・玉井南水(益一)・亀本江月(好恵)・仙波玉翠(雅子)・藤井まつよ・平沢松雨(恒雄)・成岡踏青(藤盛)・笹田節子・井上暁風(新一)・新岡弘子・宮内猶枝・大松久子・入山百子・橋本清・妻鳥堯寛・麓鬼灯・大松萍花・源芦花(義広)・桐岡虹雨・駄場桃生・夢生(入岡功)・島田稔・茶野貞・西山紙魚・山本野馬(清市)・井上蟻地獄・宮田金盞花・井上蚕城・西川静魚・東真砂子・福森智枝子・松本春暁・ツタ子・西山水馬・東虎落笛・木沢清廉・井上木斛・井上岩魚・坂口雪柳子・井上良夜・上西光利・城戸愛子・鎌田花子・西川ひろし・井上淡雪・入岡舟風・井上貞風・井上一歩・松岡虚酔・角倉みより・松中シズカ・高村ひとし・亀元都明・羽座巌・宮田収・金塚坂雄・新岡砂雄・岡田リツコ・正岡泰栄・山本寅太郎・松中新松子・仙波セワエ・中川杏花・細川紙魚・井上三都。
 以上の人達によって毎月何回か句会が開かれ佐礼谷などの句友との交流もなされた。
 昭和二一年夏、町内に初の俳誌「河鹿」が誕生した。ガリ版刷りであったが、編集印刷は暁天と三余、雑詠選者は九州在住のホトトギス同人清原拐童が担当した。しかし一年ばかりで砥部町の「春嶺」(島人・柳之選)と合併した。「春嶺」は活版印刷の立派なものであったが、これも拐童の死去とともに「柿」(村上杏子)と合併した。
 昭和二四年九月、ホトトギス同人であり若葉主宰でもある富安風生か来町し、中山町の俳句は一段と隆盛を極めることとなった。風生は道後での子規祭大会のあと、三余の誘いによって、ホトトギス同人森白象(寛紹・高野山普賢院住職・のちの高野山管長)と高野山在住のホトトギス同人三星山彦を伴って来町、日南登の岡田蛙村の栗山にて栗拾い吟行、そして岡田邸において盛大な句会を開いた。
 当夜は森平茂左衛中山町長や松山市・久万町あたりからも有名俳人がかけつけ、風生一行は日南登に一泊、日本一を誇っていた中山栗と共に俳句においても中山町の名が広く知られる事となった。その風生の来町を記念して句碑建立の話がもち上がったが、当時はすぐには建てる機会に恵まれなかった。三余の亡くなった後、昭和五〇年一〇月風生の九〇歳の鳩寿を祝し、中山若葉会と中山町の後援により、新校舎の完成した中山中学校正門わきに「栗山の句碑」が建立された。
  「栗山ヘ一縷の径のかゝるかな  風生」
 この句碑は中山町内で二番目に建立され、碑になった石は町内より産出した銘石「霊象石」で、栗色の石の頂きに白雪のかかった様な美しさと、風生の美事な筆の流れによる句は、町文化財として誇るべきものとなっている(風生句碑は全国に八〇基近くあるが、この栗山句碑は風生が生前大変気に入っていたようである)。
 この句碑除幕式には、森平実衛中山町長、市田勝久教育長、松田春義中山中学校長他、俳人や町および工事関係者の多くが出席、盛大に行われた。また記念俳句大会も催された。風生は高齢のため、後日名代として東京より若葉同人の岡本眸が来町した。
 昭和二四年末に、井上三余が森薫花壇・品川柳之・八尾修と共に愛媛県内で初の若葉同人に推され、中山町の俳壇に生気がみなぎった。そして風生選による俳誌には競って投句する者が続出するようになった。やがて井上三余は町外に転出したが、中山町の俳壇に衰えはなかった。
 そのような中、昭和二五年三月に戦時中休刊となっていた「糸瓜」が復刊した。薫花壇が主宰をつとめ雑詠選者は以前のように富安風生であった。そのため中山町からの投何者も次第に増加していった。「雲雀」同人となっていた岡田修哉が昭和二六年に「糸瓜」同人に推された。
 昭和二六年一二月、町内から初の活版印刷になる俳誌「みなし栗」が発刊された。編集は中山高校教諭の岡田修哉、選者は若葉同人と、若葉集長を務めた千葉県在住の岸風三楼であった。表紙絵は若葉同人加倉井秋を画伯作の港の風景であり、富安風生はじめ有名俳人からの祝句・祝辞などが多数載せられていた。また愛媛大学の和田茂樹教授(現在・子規記念博物館館長)の「みなし栗名義考」なども寄稿された。投何者は、町内はもとより松山・内子・五十崎・大洲市あたりからも数多く、俳句作家の研究・向上が期待された。
 昭和二七年一月豊岡の高橋良女が町内より二人目の若葉同人に推された。永木地区では城戸山梔子が熱心に句作し頭角を現し始めていたが、若くして病没したのは惜しまれる。
 昭和三〇年、四〇年代は糸瓜・雲雀・若葉などに投句しながら、中山公民館などで例会を持ちお互いの腕を磨いていた。薫花壇・三余・柳之なども時々来町し句会に参加していた。しかし戦後中山町も過疎化を免れず、一万を越していた人口も次第に町外へ流出するようになった。そのため俳句人口も減ることとなってきた。その様な状況で町内の小中高校に赴任した教員にも俳句をたしなむ人達がいた。中山高校の国語教師東沢三郎もその一人であり、公民館句会などにも熱心に出席していた。句会の面々は中央公民館などの展示会にはそれぞれの力作である色紙・短冊の出品をし高い評価を得たりしていた。
 昭和四〇年・五〇年代の中山俳句会のメンバーは次の人達であった。岡田蛙村・岡田修哉・福岡三品・福岡モモエ・大松まさを・宮岡柳絮・上田妖影・橋本きよし・西山木犀・下久保逸歩・東沢三郎・仙波道淳・瀬田弘・永尾まつ代。
 昭和六〇年頃からは入岡たけし・入岡治子・岡田順子・菊池晶子・山本允・成岡踏青・茶野貞・入岡夢生などが参加するようになった。中山公民館や日南登集会所、また会員宅などで毎月二・三回の俳句会が開かれた。
 昭和五三年春に岡田修哉が、井上三余・高橋良女に次いで中山より三人目の若葉同人に推された。
 この頃から町外の誌友との交流も盛んになり、若葉誌友などもたくさん来町、共に句会を開くことも多くなった。糸瓜同人に、岡田修哉のほかに大松まさを・福岡三品の二人がいたが、糸瓜誌の変貌により三人共同人を辞退した。
 昭和五六年二月、五十崎町からの俳誌「せきれい」の誌友が中山町に生まれた。この俳誌は五十崎町在住の「狩」同人であった山田文鳥が昭和二九年一〇月創刊したものであったが、文鳥亡きあと上隅草舎(まさを)が主宰となり、草舎亡きあと現在は井口さだをが主宰となっている。
 内子高女(高等女学校)の恩師であった内子町の弦田香陽の勧めにより泉美代が中心となって句会を開くようになった。その指導に弦田香陽と東扶桑が来町することとなった。昭和五六年二月、東町公民館において初の句会が開かれた。
 その時の出席者は、泉美代・住原幸子・神山茂・谷口米子・永尾松代・笹田冨士子・井戸文子・奥島英子・平沢アツ子・仙波サトシであった。その後宮沢繁子・早川記世・平沢房子・大松百子・土居妙子・西尾芳子・亀田みつるなどが参加、また大松まさを・宮岡柳絮の男性二人も加わった。松森向陽子などの指導も受けていたが、弦田香陽と上隅まさをが亡くなった後、中心として世話をしていた泉美代が会より手を引き、中山せきれい会は「秦皇山句会」となった。
 現在この句会は大松まさをが中心となり、谷口米子・仙波サトシ・神山しげる・笹田富士子・大松百子・平沢房子・西尾芳子・土居妙子などによって続けられている。この句会の人達は揃って愛媛若葉に投句しており、中山俳句会と同師系となっている。
 若葉主宰の富安風生は昭和五四年二月、九四歳にて永眠、俳句界だけでなく各界にとっても惜しまれる人であった。若葉誌のあとを継いだのは、慶応大学で教鞭をとっていた清崎敏郎(ホトトギス同人・若葉同人)であった。
 清崎主宰は今までに中山町へは何度か訪れており、中山町の俳人には馴染があった。選の傾向は風生とはやや違うところもあったが、虚子・風生と受け継がれてきた「花鳥風詠」をモットーとしており、中山町からの若葉投句者も減ることはなかった。
 昭和六〇年四月砥部町において「愛媛若葉」が創刊された。中山町からは若葉同人の岡田修哉が創刊に参加、県内の若葉同人を中心に稲荷島人を主宰として誕生した。これは母誌「若葉」への登竜門として広く門戸を開いたものであった(愛媛若葉には他に、戦後間もなく松山市玉川町の古川浩編集による風生選の俳誌があったが、昭和二五年第二二号をもって終刊となった)。現在の「愛媛若葉」は四国四県や他県からの若葉同人も多く参加しており、また愛媛若葉同人も数十人をかかえ誌友も年々増加している。現在通巻一一六号となっており中山町からも多くの投何者がある。青葉抄(若葉同人)には岡田修哉、黄葉抄に大松まさを、福岡三品・西尾芳子・入岡治子の三人が愛媛若葉同人として名を連ねている。
 その他町内では泉町三の後藤波久(博)が「雲雀」に参加しており、愛媛の雲雀代表として活躍している。
 昭和六三年中山町文化協会が誕生した。上岡貞義会長をはじめ、副会長・事務局長・係・各部門長や理事などが決ったが、俳句部門では理事に岡田修哉、評議員には中山俳句会より福岡三品、秦皇山句会から大松まさをが選ばれた。その後、各方面からの協力を得て毎年秋の中山町俳句大会開催や句碑建立などにその成果を上げている。
 平成元年秋第一回中山町俳句大会が、中山町農業総合センターにおいて開かれた。そして、平成六年一〇月に第六回の俳句大会が開催されたが、年々出席者が増加して一二○名を越すほどになった。この大会は各派を問わず気楽に出来ることを念願としているが、参加者は町内三句会の他に、松山市・北条市・菊間町・温泉郡・伊予郡各町村内や伊予市・大洲市・内子町・五十崎町・肱川町・保内町・野村町・宇和町・明浜町・久万町・美川村あたりからの顔ぶれも定着するようになってきた。
 選は出席者一人五何選であったが、投何者が増加したため六年から三句選となっている。
 大会の代表選者は次の人達で特選二句入選一〇句となっている。そして特選には選者の短冊が賞として贈られている。
 平成六年の代表選者は、若葉同人から稲荷島人・土居二三路・堀内吟一・平松草太・高橋一平・高橋沢子・中岡和郎・岡田修哉、万緑同人の宮内むさし・上田王魚子・森岡青湖、草苑同人からせきれい主幹の井口さだおという人達であった。
 選者の中で、小倉虹男・玉井旭(若葉同人)は、所用のため出席出来なかった。以前に大会選者として出席したのは、若葉同人の野田瑠璃子・首藤翠波と春嶺同人の佐野雪子などであった。
 この中山町俳句大会には五つの賞があり、平成六年の大会の受賞者は次の人達である。
 中山町長賞・重松里人、中山町議長賞・森野経子、中山町教育長賞・西尾芳子、中山公民館長賞・合田ミユキ、中山町文化協会長賞・黒川礼子。このほかに二〇位まで記念の賞が贈られている。

 句  碑
 中山町内に現在までに建立されている句碑は一四基となった。このうち中山町文化協会によって建立したのは、前記の、田辺文里・村上霄月・松根東洋城・忽那快風を含め九基となっている。
 句碑はどれも町内産出の自然石が使われた。句碑建設委員会をつくり、その都度慎重に協議がなされ、委員により句の作者の選定、場所の決定、石の選定等かなりの時間がかけられた。石は町で採集してあったものを使い、予算も町より必要額を計上、また句会員や有志からの寄附によってなされた。
 句碑のうち井上三余句碑は柚ノ木の稲本明範(建設)から寄附を受けたものである。
 句碑には後世に分かり易い様に副碑を建てたり、句碑の裏面に説明を彫刻したりした。建立者は文化協会と町内三句会・有志・中山町となっている。
 平成三年七月二八日、中山小学校校庭(旧正門わき)に若葉主宰清崎敏郎の句碑が建立された。
  「菩提樹の花の盛りは今ならん   敏郎」
 清崎敏郎が前年に盛景寺の菩提樹に立寄り、丁度花の盛りを賞でた時に詠んだものである。この木は作家の水上勉が彼の書「樹下逍遙」に日本一の菩提樹と称賛しているように立派なもので、今では開花時にはたくさんの人が見に来るようになった。
 俳句作家の目には花時だけでなく、菩提子の飛ぶ頃や新緑・木の芽吹く頃など豊富な句材となっている。
 「菩提樹句碑」の除幕式には、東京より清崎主宰が若葉同人大橋はじめ・井口冨子と共に来町、若葉誌友や中山町の開係者一三〇名余りが集って、盛大に取り行われた。また続いて記念の俳句大会と祝宴が農業総合センターにおいて催された。
 平成四年四月一三日、井上三余の句碑が、彼の菩提寺である大興寺に建立された。
  「夕ぐれの雨がとびつく焚火かな  三余」
 三余の句には若葉巻頭の作などすばらしいものが多くあるが、これは松山の三余旧宅にある掛軸より使用された。除幕式には亀井正哲町長はじめ、町関係者、稲荷島人愛媛若葉主宰、若葉同人、若葉・愛媛若葉誌友、三余の子息や親戚、建設関係者、寺総代等多く集まり盛大に行われた。また大興寺において祝宴が催された。
 平成五年一一月一四日、秦皇山観音堂境内に森白象句碑が建立された。白象は昭和二四年秋風生と同行以来、何度か中山町に立寄り、俳句指導にも当たっていた。九五歳まで高野山の前管長として多くの人々から崇拝を受けていた(平成六年一二月二六日死去)。
  「平凡を倖せとして去年今年   白象」
 除幕式には市田助役、町関係者、秦皇山観音堂総代、愛媛若葉社幹部、町内三句会の俳人、工事関係者など多く出席して盛大に行われた。そして祝宴が農業総合センターにて開かれた。白象は高齢で出席出来なかったため、後日、一二月下旬に高野山普賢院へ句碑建立の報告と礼のため次の代表を中山町から送った。上岡貞義文化協会長、亀岡勉教育長、井上勝博生涯学習課長、岡田修哉中山町俳句会長の四人である。白象は中山町を懐しがり、大変喜んだそうである。俳句だけでなく、全国的に広く信仰を集めている人の句碑が中山町に建立されたのは喜ばしいことである。
 平成六年九月四日、稲荷島人句碑が、野中構造改善センターに建立された。
  「螢火や暈をまとへる山家の灯   島人」
 建立にこぎつけたのは、島人が伊予農業高校で教鞭をとっていた頃の教え子達で野中方面の人達であった。西岡芳教収入役・中岡健一町議長・山岡赳野中公民館長などの尽力による。除幕式には島人夫妻、市田助役、町関係者、地元からは前記の発起人の他、窪中一郎・泉田武夫・松本忠光町議や文化協会員、俳句関係者、有志や工事関係の人達等多くが列席した。そして同所において祝宴が催された。
 前記以外に一基、盛景寺入口には仙波道淳和尚が昭和五〇年六月建立した句碑がある。
  「化けて来し狸と秋を語りけり  柳原極堂」

 近詠より
 降る雪の奥に浄土のあるらしく      岡田 修哉
 十五夜の海へ漕ぎ出す櫓音かな     大松まさを
 欄干に片手をかけて蛍呼ぶ        福岡 三品
 笹鳴や姿さだかに見えねども       入岡 夢生
 夜釣舟暗に櫓音の遠ざかる        下久保逸歩
 栗山のしじまに栗の落つる音       福岡モモヱ
 子規堂にお茶席かかり日脚伸ぶ     岡田 順子
 笠をとり女となりし秋遍路          山本  允
 鷺草のまこと飛び立つ姿かな       宮岡 柳絮
 裏方は年寄りばかり地蔵盆        入岡たけし
 藁塚の影つらなりし夕日かな       入岡 治子
 河鹿きく湯浴のあとの肘まくら       橋本きよし
 写経背ひ一日だけの秋遍路        岡田 蛙村
 生涯をかけたる栗のたわわなり      西山 木犀
 山門へ風吹き変わる朴落葉        茶野ただし
 晴の日記三月目となり秋となり      高岡 貞美
 乗り初や写楽の顔の来て座る       後藤 波久
 野水仙空より蒼き瀬戸の海        神山しげる
 住みなれし山里の空燕去る        谷口 米子
 小春火や和紙人形の衣えらび       平沢ふさ子
 精根の尽きて倒れし木の実独楽      大松 百子
 栗山の上に人住み鰯雲           笹田富士子
 灌水をつづけし稲穂垂れにけり      仙波サトシ
 ふるさとのいづこも栗の花盛り       土居 妙子
 熱爛に本音洩らしてしまいけり       亀田みつる
 理容着を脱いで母とし土筆煮る      西尾 芳子

 佐礼谷「むささび」俳句会
 現在隆盛を極めている俳句。佐礼谷地区においても歴史は古く、明治三〇年頃から砥部・原町・松前・郡中・松山等と交流したことが、三島神社・山吹御前・峯薬師堂等にあるそれぞれ一〇〇句余りの奉納俳句額にみられる。しかし、現在残っているのは山吹御前の奉納額だけである。
 その奉納額は、明治三一年九月吉良日に岡田勘三郎・松本丑太郎・亀岡折衛・谷楽一・西岡亀太郎・梶原熊五郎が願主となり奉納されている。その中に結社「會林」の俳人・喜仙・一流・川水・斯螢・吾水・青杉・御芳等の名が記されている。地元の俳人も十数名いたと思われる。
 峯薬師の奉納額はなくなってしまったが、
「菊畑茶のわくまでの朝仕事 梅之木 西岡ハル」
 という句を安別当の宮岡巳延(前中山町消防副団長)は記憶しており、俳句は地元に今も生き続けている。
 現在、毎月句会を開いている「むささび」会は、昭和六年当時佐礼谷村長であった松本萬蔵(犂雪)によって、提唱され、次の会則を以て発足した。この会名は、空中を滑空する動物むささびから命名された。他町村ではめったにみられないが、村中・安別当の山間部では多く棲んでいるという佐礼谷特有の動物で、四季の区別なく夜間杉の樹間を飛び廻り、人を驚かす性質がある。
    俳句会々則
 一、会名 ムササビ会卜称ス
 一、会場 佐礼谷村役場内ニ置ク
 一、役員 幹事 一人 会計係一人トス 会員互選ヲ以テ定ム
 一、会費 毎会一人ニツキ金五銭トシ、句会毎ニ各自持参ス、外ニ特選ノ場合ハ天位ノモノ六銭、地位ノモノ四銭、◎ハ一句一銭宛徴収ス
 一、入退会 幹事ニ申出デルコト
 一、句題  会員協議ヲ以テ定ム
        但シ運座ノ場合ハ各自随意トス
            (昭和六年二月一七日制定)
 発足当時の会員は、役場吏員・小学校教員などで、中央周辺の者が多く次のメンバーであった。
 主幹松本犂雪(萬蔵、村長)・野口清渓(順吉、佐礼谷郵便取扱所長)・西村社雪(喜代一、小学校長)・伊藤憲(小学校教員)・安部皎月(勘三郎)・鷹尾更生(良市)・西久保西久(熊市、役場吏員)・武智社宇(盛継、小学校教員)・和田阿由(モモコ、誓明寺奥)・中屋几楼(伊予鉄電散宿所長)・久保田一尤(一雄、小学校長、教育長)・山本愚仙(嘉次郎)・宮田齋渓(喜市、後村長)・会計係松森梅渓(現渓月、梅市、役場使丁)。
 発足当時は毎月数回役場宿直室に於いて開会し、兼題方式を主体に三、四題出題、時には運座も行った。この運座は各人が一題宛出題し、まず本人が一句を記入し、次の者に廻す、次の者は前者の季題に対し一句を付記し、順次全員に及ぶやり方である。
 また兼題並びに運座の作品は、次々回覧互選披講し、問題作品は俎上にあげて批判検討し、最後に主幹が総合的な批評を加えた。会員は自作の作品が多数入選する事を栄誉とすると共に、相互の批判検討に依って研鑽を深める事ができたことはいうまでもない。なお各作品は季題毎に清書し、これを数名の選者に送り指導を仰いだ。当時の選者は松前町山下一渓・黒田南山史・松山市村上壺天子・野間叟柳の諸氏であった。
 当時は愛媛新聞に投句したり、山梨県に住んでいた飯田蛇笏の主幹誌「雲母」に投句し、同支部郡中通草会(主幹宮内花丘・現甲一路)とも交流したりした。
 昭和八年頃は一時下火となった。しかし昭和九年橋本克海(巡査)が来町、氏が川柳界の大家であった関係上、俳句会で川柳も併せ作った時期もあった。
 昭和一〇年からは、森岡青湖(正雄・郡中小学校長・現伊予市文化協会会長)・松本雄天(和雄・役場吏員)・下岡広洋(鶴之助・左官業)・水本海嵐(後植岡重喜)・宇都宮一峯(中山巡査部長)・船田渓舟(団蔵・農業組合専務)・岡崎一松の諸氏が入会、俳誌「糸瓜」の森薫花壇・白石白虹堂・品川柳之諸氏の指導を受け、大いに隆昌に迫車をかけた。主な句は次の通りである。
 初日の出堤の松の影長志     広洋
 積む雪の連なる峯や初日影    広海
 日の始め荒浪越ゆる日章旗    犂雪
 初空を二見に拜す孫とぢい     渓舟
 暮れ早に初湯たき居るおぎな哉  春水
 水餅や来る日来る日の春らしき  海嵐
 摘み戻る籠の若菜を隣にも     青湖
 満願の社頭に青き梅の見ゆ    一峯
 麓路や青梅の下磨崖佛       美水
 渡舟まつ女ばかりや稲光り     一松
 昭和一六年太平洋戦争勃発と共に、出征する会員が続出したためやむなく休会となった。この間昭和一九年一一月三日創始者であった主幹松本犂雪が病没した事は、むささび会は勿論佐礼谷村にとって大きな損失であった。
 明治四四年から昭和一〇年まで、犂雪が第五代佐礼谷村長として二五年間全精力を村政に傾倒し尽した功績は、実に偉大であった。また特に漢学に長じ、詩歌、書画骨董、活花、茶道等趣味百道にも通じていた。さらに、植物学にも造詣深く、愛好者に対し「三つとせ見るもの聞くもの心せよ。虫も草木も知慧の玉」の数え唄の文句を挙げ、薫淘を続けたのである。
 終戦後昭和二一年一二月、森岡青湖によって再興され句会が催された。そして橋本東村(現月登)・石丸六花女(巡査婦人)・竹岡霧音(時三郎・役場吏員)・西影景雄(伊佐夫・役場吏員)・上岡霞丘(茂雄)・高木線月(文四郎)・亀岡洗月(武重)・梶原竹生(操)・久保田春栄・森川素石・飛田林子等の新人が入会し、計一四、五名の会員を得て盛況を極めるに至った。その後二二年四月青湖は郡中校に転任したが、句会には欠かさず出席して指導をした。青湖がなした再興の功績は偉大なものである。青湖転任後は橋本月登が主幹となり、俳誌「糸瓜」主幹の品川柳之を選者として、毎年一、二回同氏を招請して指導を仰ぎ活発な句作が行われた。
 殊に月登は、文学士たる才能よろしく城南高校に教鞭の傍ら句作にいそしんだ。月間数百句の多作者として有名なばかりでなく、会員の指導育成にも尽力したのである。この間二四年には和田幸子(阿由長男妻)・下岡村落(明春)・榊原喜久(医師妻)・小田カヤ子・河内喜代晴・瀬田包春(包)・平林三雨(小学校教員)の新人も加入した。
 昭和二九年、東京成渓大学教授中村草田男主宰俳誌「萬緑」に転向し、全員同誌の読者となった。月登は同誌の同人に推挙され、三〇年全国大会を松山に招集することに成功した。三九年萬緑賞の栄誉を受けた事は全国俳人のひとしく周知する処である。なお、同氏は萬緑愛媛支部幹事として松山市の私邸に県人の例会を開き、むささび会員作品と合編し、同誌東京在同人辻井夏生・雨宮昌吉等の選者の指導を受ける労苦を一手に引受けた。その活躍振りは同志全員が敬慕して止まない。
 この間の近作を紹介すると以下のようなものがある。
 手織の綿入伝えて三代袖短か  主幹 橋本月登
 初雀仲間とあれば張りある声      森岡青湖
 船窓に入江入江のどんどかな      下岡広洋
 炉によりて読書三昧孤独愛す      和田阿由
 若水汲む拍手未明に音高く       松森渓月
 木枯を幾年受けし神社の森       下岡村落
 初雪や輿入の荷は声高に        和田宗圭
 声高の年始懐かし祖母の友       和田幸子
 栗拾い落葉じめりのにじみくる     河内喜代晴
 秋暑き赴任の酒をこぼし飲む      平林三雨
 月登は「山村の独善的なものは駄目だ」と、昭和四二年四月中村草田男主宰「萬緑傘下」愛媛支部誌として、月刊「海香」を発行し、この発展に生涯を捧げた。むささび句会会員も毎月全員が投句し現在に至っている。月登は昭和五四年に句集『遠嶺』を刊行した。主幹として熱心に指導を続けたが、昭和五五年一一月に死去した。
 むささび句会会員等は、月登の偉大なる俳人の功績を後世に残したいと、
下岡村落  森岡青湖  井上白兎  武智楽昌  松岡利延
米田緑夢  岡村福栄  和田幸子  下岡広洋
 右の九名が建設者となり、平成元年六月吉日に佐礼谷小学校の校門の右隅に
 「師弟が仰ぐ遠嶺の初雪夕日背に  月登」の句碑を建立した。
 「河鹿鳴き静かに夕日入りにけり  広洋」
 下岡広洋(鶴之助)は温厚誠実で、むささび句会に入会して六〇年の長きにわたり活躍し、自費で句集を刊行、病床にあっても句会には必ず投句した。部落の人々にも親しまれ、平成三年八月吉日に部落民一同が、句碑を三島神社境内に建立した。平成六年七月一五日、惜しくも九七歳で病没した。
 松本犂雪の句碑は、平成四年三月吉日、安別当峯薬師堂の境内に建立された。
 「揚げ火花消えて大杉闇に立つ  犂雪」
 犂雪(松本萬蔵)は、前述の如く実に立派な業績を残している。文化協会、俳句会、安別当区等で句碑を建立したが、除幕式には、文化協会、俳句会、中山町の有志と共に安別当の全戸より出席し、盛大に行われた。
 なお、句碑の石は安別当より産出したものを用いた。これは、地区の人全体の犂雪に対する敬意と希望の表れでもある。
 現在「むささび句会」の指導をしている森岡青湖(正雄・元郡中小学校長・現伊予市文化協会長)は、平成六年愛媛萬緑会長に就任した。海香の一月号に「萬緑のめざすもの」と題して巻頭の言葉を記している。
 「萬緑創刊号」における主張は、
 「一個の俳句は、飽くまでも〈芸〉としての要素と〈文学〉としての要素から成立しており、又、成立ささなければならない筈のものである。〈芸〉とは俳句の有機性に関する制約の一切を指し、〈文学〉とは作者としての内面界における、人生・社会・時代の生活者としての無制約の豊富な内容を指す。かつて経験したことのない構造変化を目前としたこの時代に、『人生如何に生くべきかという問題』、そういう真実の追求の一切が、文芸の第一義的なものになってきた時に、俳句は『文学としての俳句』に高めることをめざしていきたい」ということである。
 昭和六年に「むささび会」が発足して以来三〇余年間、戦時中の三ヶ年の空白を除き、連綿として毎月欠かさず例会を続けている句会は全国にも数少ないという折紙を中央の諸氏からつけられている事は最大の誇りである。今後同好の士が多数入会し、益々発展、永続していくことを念願する次第である。会が終わると酒を酌み交しながら時事放談をするのも楽しみの一つである。
 現在の会場は、佐礼谷生活改善センターで、毎月第一土曜日午後七時から開催することを原則としている。

 近詠より
           森岡青湖
 初東風や無垢の砂丘渚まで
 晩学や緋蕪潰の日々に濃き
           下岡村落
 夕方に雪解け道をもどる駄馬
 等高線やっぱり故郷は雪の中
           南参波
 熱田津の辺に落日や芋煮会
 ふる里の四峯低く山粧ふ
           米田緑夢
 凍滝のふくらみの中水走る
 川鴨の集ふ丸みの中洲なる
           松岡利延
 枯落葉灼発電気巻上げて
 初日の出山脈に向ひて独り言
           森本政志
 夏鶯鳴くや潮騒遠ざかる
 新緑の萌えて岬は巨体なる
           岡村福栄
 きらきらと金粉のごと銀杏散る
 春愁や亡き母二人琴二面
           河内喜代晴
 鉄塔をうかして昇る初日の出
 福は内鬼も内うち瓦焼く

 句碑めぐりについて
 中山町では句碑が一四基建立されているが、その句碑をもとに町内を巡れるように「句碑めぐりマップ」が平成六年に作成された。先人の輝かしい跡をたどり、新風を吹き込みながら、今後中山町の文化が俳句を通しても益々向上、発展することを願ってやまない。