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中山町誌

二、 村芝居

 栗田 歌舞伎
 本町栗田郷では、明治時代頃から氏神烏帽子杜三島神社奉納の歌舞伎芝居が盛大に催されていた。
 その起源についてある古老の話によると、当地方に疫病が流行したことがあり、その時悪病退散・病気平癒を祈願するため奉納芝居を創められたそうであるが、その真疑は定かではない。他地方から芝居及び浄瑠璃の師匠を雇って来て、村人達がその指導を受けて演出したようである。
 当地の氏神烏帽子杜三島神社拝殿には、昭和一一年(一九三六)に奉納された額があるが、二〇周年記念の歌舞伎芝居に出演した芸題役割及び氏名が記されている。それによると義士忠臣蔵、三勝半七、阿波鳴門、玉藻前が演ぜられ、振付は郡中嵐竜堂が担当している。当時の盛況が偲ばれる。これに伴って当時は、浄瑠璃も盛んに流行したとのことである。
 なお芝居に使用された衣装・かつら・刀剣その他の諸道具も揃っていて、毎年七月には日を決めて道具干しをしていたそうである。
 毎年祭礼日には、境内に芝居小屋を設け、村人達が集まって演劇を楽しんだことと思われる。
 地域に娯楽の少ない時代だったので、盛んに芝居が行われていたようである。

 栃谷 喜楽団
 栃谷地区においても村芝居が行われていた。資料不足ではあるが、古老の話によると次のようである。
 この芝居は、名称を喜楽団といい、大正一〇年頃に始まったようである。地区内の若い人や、趣味のある人々が集まり組織したものである。素人の集まりで指導者もなく、地区内の器用な人が中心となって自分達で練習をしていたようだ。勿論費用は自弁である。衣装・小道具等は上演当日内子の業者より借りたという。
 上演も定期的ではなく、農閑期等に空地へ小屋掛けをして行ったが、人気は相当なもので御花なども沢山上がったようである。また本町の常設館大正座でも二、三度上演したことがある。
 戦時中、昭和一二年頃から一時中止されていたが、戦後に復活し、当時の社会的な風潮に乗り、昭和二五、六年まで続けられていた。

 梅原 梅青団
 梅原地区においても村芝居が行われ、今も続いている。資料がないため判然としない所もあるが、昭和一〇年の幕があることからみると、大正末期には組織され、「梅青団」として発足していたようである。
 地区内の有志で声をかけ合って集まり、内子町の広瀬氏の指導を受け、梅原寺、天理教(今は集会所)で練習をした。一方住民はこぞって応援態勢を作り、地区をあげての芝居として発展して今に至っている。
 費用は自弁であり、衣装・カツラ・小道具等は内子・大瀬の業者より借り受けていた。
 上演も祭礼・正月など一年に一、二度梅原寺、天理教で行ったが、人気は上々で御花も相当額上がっていたようである。
 戦時中一時中断したが、戦後復活し昭和二一年頃より昭和二六年頃に隆盛を極めていた。時代の変化により他の地区の村芝居は順次中止される中、「今も地区の協力により続いていることは有難いことだ」と関係者の人は言っている。
 現在は永木小学校体育館、農業総合センター等で要請を受け上演している。