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中山町誌

三、 歴史伝説

⑭ 秦皇山の衣川と衣大師
 今から一二○年ほど前、秦皇山観音堂を開いたと伝えられている僧が、同所に十一面観世音菩薩を祀り二一日間の供養をした。後、麓の民家へ降りて、「自分は十一面観世音菩薩をお祀りする霊地をさがして、やっとこのお山を訪ね当てることができた。観世音菩薩をお祀りしておいたからお参りして有り難いおかげを受けるとよい。なお、このお山には水がないので、清水が湧き出るように祈願して清水溜を作っておいた。この水で心身を清めるように」と告げて、かき消すようにいなくなった。
 人々は不思議に思って山に登ってみると、観音像が祀られ、その近くに清水溜りもあった上に、傍に一着の衣が残されていた。人々はことの不思議に驚き、その衣をそこに納めて大師像をお祀りした。この泉が衣川と呼ばれ、大師像も衣大師と名付けられたと伝えられている。  (小池)

⑮ 長沢の明神由来
 昔、上長沢が戦場になったことがあり、その時戦ったのは、サンダの三郎という落武者であった。上灘から攻めてきた軍に対して、サンタの三郎は母親を伴ってよく戦ったので上灘の軍は一旦退却した。
 しかし、三郎の武器が何もなくなった時、母親が「三郎、矢種が尽きた」と口をすべらせた。そのため上灘の軍はまた攻め返し、とうとう三郎は討死してしまったという。それで、女はいらぬことをしゃべるものではないといわれてきた。
 国道から少しはずれた所に三郎の塚があり、明神様として祀られている。  (上長沢)

⑯ 山吹御前の墓 (A)
 山吹には、木曽義仲の妻であるという山吹御前の墓がある。昔、四国の海岸に流れついた源氏の落人の中に、山吹御前という人がいたが、ここに落ちてきた時すでに息が絶えていたので、笹竹を組んでそれに御前の死体を乗せて佐礼谷までの坂を曳き上げた。それでこの坂を曳坂という。そして山吹のあたりでお塚さんを作り、その上にお宮を造って祀ったという。  (村中・山吹・上長沢)

  山吹御前の墓 (B)
 平治元年(一一五九)一月から寿永元年(一一八二)三月までは、平重盛ならびにその子維盛が伊予の国司だった。これらの国司は京に居たままで、実際にはその地方の豪族が治めていた。
 やがて、源氏の義仲が兵を挙げて平家を四国に追いやり、京都へ上洛してからは中央政権が義仲の勢力のもとに置かれた。そして伊予の国司は木曽義仲が任ぜられることになった。
 しかし、元歴元年(一一八四)一月、義仲は同じ源氏の一族である頼朝の弟範頼や義経に追われる身となり、遂に近江の国の粟津が原で戦死してしまった。
 当時義仲の寵愛を受けて第二夫人となっていた山吹御前は、義仲死亡の後、従者とともに、京都を出て難波(今の大阪港)から船に乗って伊予に逃れることになった。
 伊予はその頃義仲の領国だったので知人も多くいた。しかし、河野家をはじめ頼るべき人たちは皆頼朝の味方となっていた。それでやっと上灘の海岸に辿り着き、ひそかに上陸して山奥へ忍び込もうと川沿いに登るうち、大栄口あたりで山吹御前は長い船旅の疲労のためとうとう死んでしまった。
 従者たちはその屍を人知らぬ所へ隠し納めようとして、笹竹に乗せて山坂を曳き登り、佐礼谷の盆地、仁壬川の清き流れのほとりに墓地を定めて葬ったと伝えられている。
 現在このお墓のある部落を山吹といい、大栄口より佐礼谷へ登る坂道を曳坂、坂を登り切った所は、この時楯を立てて囲いにして、一夜の宿にした所として築楯という地名が生まれたと伝えられている。
 (注) 最近になって新しい史料がわかったので左記して おくことにする。

⑰ 山吹御前に死出の衣を着せた場所
 日浦の礒崎宅の裏山に、けもの道のような細い道がある。この道をもう少し行くと道端の雑木の中に、小さな古く傷んだお室がある。これが、亡くなった山吹御前を死者の衣裳に替えさせた場所といわれる所である。現在でもこのお室のある場所だけを、イショガエ地(衣裳替え地)と呼んでいる。また、このけもの道のような小道はその昔、このあたりの往還道路であったと考えられる。
 最近、県外からも山吹御前の史蹟を尋ねてくる人もあるという。  (日浦)

⑱ 犬寄峠の由来
 大洲藩と松山藩の間を通う御用飛脚が、松山の殿様の使いで大洲の殿様のところへ行こうとした。犬寄峠に差しかかったのは深夜だった。突然一匹の山犬が現われぎらぎら光る目、大きな声で吠えかかった。飛脚は驚き、差している刀で抜き打ちに山犬に切りつけた。山犬は一声高く「ウォーッ」と吠えたてた。
 その声が四方の山々や谷々にこだますると、たちまち周囲の草むらから数十匹の山犬が現われた。山犬たちは飛脚を取り巻き、四方八方から飛びかかり、今にも食い裂くばかりの勢いになった。近づく山犬を切り殺していったが、殺せば殺すほどますます多くやってくる。集まってくる山犬は次第に増えて、何百何千という数になり、飛脚の命も危うくなった。
 ふと隣を見ると松の大木があったので、飛脚はこれによじ登った。ここなら大丈夫であろうと胸をなでながら下の様子を見ると、木の下にはいよいよ多くの山犬が集まってきた。一群の山犬が松の木の周りに集まれば、他の一群はその上に跳び上がって肩車に乗り、次の一群はまたその上の肩車に乗って飛脚を狙った。斬り殺しても斬り殺しても次から次へと上がってくる。飛脚はとうとう松の木のてっぺんまで追いつめられた。山犬はいくら殺してもひるまず跳びかかってくる。疲れ果てた飛脚は、今はもう山犬の餌じきとなるばかり、これまでの命と観念した。
 その時、ふと飛脚は持った刀の目抜きに鶏の名作が彫刻されていて、血潮で温められるときは鶏が歌うことを思い出した。ここぞとばかり飛脚は「この鶏の名作、まことの性根あるものなら見事歌って見よ」と大声をあげた。あら不思議、刀に彫った鶏が「コケコッコー」と声も鮮かに歌った。この鶏鳴に驚いた山犬どもは、「一番鶏が歌うた。もう夜明けが近い。早よいなないかん」と言って、囲みを解き、飛脚をにらみながら帰りかけた。そして、帰りがけにこう言った。「ああ、残念。畑の左衛門の女房の山猫さえ来ておったら、この失敗はなかったのに。残念だ」と言って帰ったそうである。
 左衛門は三秋の猟師であった。この話を聞いた大洲の殿様は、「左衛門の女房が山猫なら殺せ」と厳しく命じた。家来の者が左衛門にこの話をすると、左衛門は「この可愛い女房がなんで山猫じゃ。なんで殺されようぞ」と怒ったが、殿様の命令だからしようがない、殺すことに決めた。
 畑の左衛門はもともと鉄砲の名人で、猟に行くときも女房が渡す七つの弾だけで猟ができたのである。今度は殿様から弾を貰いそのことは女房には言わず隠していた。いよいよ殿様の命令で撃たなければならない。一発撃つと女房は茶釜の蓋でチャリンと受けた。しまったと左衛門は二発目。これもチャリンと受けられた。三発四発と、とうとう女房に貰った七発とも撃ち尽くしたが、全都安けられてしまった。
 左衛門は神仏に祈りながら、殿様から貰った八幡大菩薩の弾を込めた。この弾のあることは女房は知らない。もう弾はないと思って安心しているところへ最後の弾が飛んできた。死ぬと、今までの可愛い女房は山猫になった。
 これが犬寄峠に由来する本格的な伝説である。