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中山町誌

第二節 婚姻

 通婚圏
 青年達は年頃になると、世話好きな人が持って来た話で見合いをする。町内、町外の区別は余りなく、遠くても親戚筋に当たる家系とか生計状態が似ている家同士、即ち釣り合いのとれた家などが選ばれた。
 通婚の範囲も本町に隣接する町村が最も多かった。しかし時代の進展と共に職域・交通等の関係で現在は広範囲になってきた。

 婚期
 昔は早婚で年頃というのは男子二三、四歳、女子は一八、九歳で、男子は兵役に出る前が多かった。女子は二〇歳を過ぎるとソバタネ・行かず後家、・売れ残りなどといわれ、評判が悪くなり、婚期を逸すると縁遠くなった。現在は一般的に晩婚の傾向があり対照的である。

 結婚の形態
 見合い婚が最も多く普通の形態であった。まれには許婚というものもあったが、自由意志による恋愛は許されずほとんどなかった。変愛で結婚した者を「好き合い」と呼んでやや軽蔑された。青年団の会合やお祭り等で知り会う青年達もいたが、親の反対に会うと駆け落ちしたり娘を盗んだりした。この様な場合は、親から勘当された。しかし子供ができてしばらくすると許されるのが多かったが、許されるまでにはかなりの年月がかかった。

 見合いと仲人
 見合いといっても現在の様子とは異なり名ばかりのものであった。
 例えば、世話人と一緒に「牛を見に行く」といって娘方を訪れ、そっと娘の様子を観察して帰るとか、世話人の家か娘方または神社等で顔を合わせることもあったが、普段着でお茶を飲む程度の簡単なものであった。
 従って、娘の方は顔や形をはっきり見ないまま結婚した人も多く、婚前に二人で交際したりすることは全く考えられなかった。
 「仲人はとかくうそ八百」「仲人口」といわれたように、話をまとめるため相手のよい点を誇大報告し、口上手な人が多かった。結婚式から破談離婚等々の相談にものり、お礼は結納の一割程度が普通であった。

 婚約と結納(すみ酒、タノメ)
 世話人がそのまま仲人になり双方の親の承諾を得る。従って青年達は親任せ、親のいいつけに従うことが多かった。
 両方の承諾が得られると、仲人が男方から酒一、二升を預かり娘方に持参する。この酒を「スマセの酒」とか「イイレの酒」と呼ぶ。一升は一生に通じるとかいわれた。また酒の外に鰯や煮干等酒の肴を持って行く人もいて、これを「樽荷ない」と呼んでいた。
 この日に結婚式の日取りも決められ約束ごととして成立する。この酒が納まると次は結納となるが、裕福な家と貧しい家とでは大変な格差があった。また結納は、特定の日を定めるでなく、婚礼の日に迎えに行く時持って行く人もあった。
 内容は現在の様に数多くなく、「御帯料」とか「肴料」などと書かれた目録であるが、中には現金であったり、「たのめの帯」という帯袋や草履を持って行ったこともあった。
 結納返しはほとんどなかったが、嫁入りの時仲人が持って行き男の親に渡す人もいた。その場合は結納の半分か三分の一程度で、現金または「御袴料」として返していた。結納を納める時、結納返しはいりませんといえば返さなくてもよい習しがあった。
 時代と共に結納も派手になり、正式に目録を書き交換する様になった。目録の書き方は多少の相異はあっても大体上の様なものである。

 婿入り 嫁入り
 嫁入りは夜行われるのが通例で、嫁迎えはそれに間に合うように昼間に出かけた。迎えには仲人と婿は必ず行き、他に人足さんや親戚代表が付いて行く。婿は羽織袴の正装で行き嫁方で接待を受けるが婿だけは先に帰る。これを婿入りと呼んでいた。
 この後嫁入りである。提灯を下げ仲人を先頭に行列を作って行き、最後に人足が両掛に嫁の荷を入れて運ぶが中には柳行李一個で行く者もあった。
 また、嫁迎えには角樽に迎酒、肴及び兄弟への土産物を特って行き、その半分は先方に贈り、半分は持ち帰る風習のある部落もあった。
 嫁入りに行くお嫁さんの行列を見ると、路傍の人が「嫁人りぞ」「嫁人りぞ」と大声ではやしたて、皆で嫁見をしたりもした。
 昔の通婚圏は、村内、または近郷であったため、徒歩がほとんどで、明治・大正時代に入り人力車が使用され、昭和時代に自動車が現れこれを利用する様になった。
 嫁方からは両親・兄弟・親戚などの人々が参列したが、嫁には嫁とぎといって嫁の身近な者の中で未婚の女性が選ばれ同行した。
 結婚式の晩には、村の若連中が婚家の庭に墓石や、お地蔵さんを運んで据えた。これは「落ち着きがいいように」「仏になるまで仕える」「一生据える」という意味が込められ、戻しに行く婿方では大変迷惑であるが、慶事のため若者達には酒の振舞いをする家もあった。

 結婚式
 「結婚式と泥棒は節季」といわれ一〇月~一月の大安吉日を選んで自宅の座敷で行われた。当日雨が降ると「降り込む」といって縁起がよいと喜ばれた。
 座敷に座わる位置関係は一様でなく幾種類かあるが、嫁は近隣の人に見えやすい上座に位置することが多かった。
 席に着くと仲人や婿方の親戚の人、または村の長老の進行により三・三・九度(かための酒)の盃が交わされた。小さい男女の子供が「雄銚」(男)「雌銚」(女)という銚子をもって次の方法で行われた。
 「一の盃」先ず新郎、次に新婦、了って納盃
 「二の盃」先ず新婦、次に新郎、了って納盃
 「三の盃」先ず新郎、次に新婦、了って納盃
 三三九度が済むと親子の縁つなぎの盃をする。嫁の盃を婿の親兄弟親戚へと流し、婿の盃を嫁の親兄弟親戚へと流し、最後に仲人が「末広おめでとうございます」と言って盃を納める所、また新嫁によって名酒が酌まれ、引き合いの古老が代表して受ける所もあった。
 全ての盃ごとが済むと披露宴となり、親戚知人も加わり、継続されて夜半まで続くが、嫁方の一行はいくら遅くてもその日のうちに帰ることになっていた。
 この様な結婚式の繁雑さから、結婚式場での結婚や神前結婚式が行われ始め、参加者の数も増し、地域を中心とした結婚式の形態から職域の関係者が多くなり、設備の充実した会場に人気が集まり経費はかさみ華美となってきた。

 歩き初め
 新しく迎えられた嫁は、母親に連れられて「ひき合い」や「十人組」と呼ばれる組内に、式当日或いは翌朝、または里帰り後挨拶廻りをする。お土産などは特に持たなかった。

 里帰り
 結婚式の翌日する所がほとんどであり、挙式が無事終わった報告と挨拶を兼ねて夫婦だけで行く。大方は何も持たずに行くが砂糖箱を持って行く部落もあった。里方ではおはぎや御馳走を用意している。このおはぎは丸く納まるようにという意味で、食べなければいけなかった。夫婦は泊らないで夕方には戻ることになっていた。
 現在のように記念撮影をするとか新婚旅行に行くようになったのは近年になってからである。

 正月礼
 里の両親に感謝の意をこめて正月三ヶ日の間に、お年玉(お重ね餅二升)を婿が、嫁の親が生きている間は持って行く風習があった。

 婿養子
 男の子のいない女子のみの家には婿が迎えられた。男子が養親の娘と結婚し養親と養子縁組をすることが同時に行われることになる。女婿が中心に結婚式が行われ嫁と婿の立場が入れ替った儀式となった。
 また家に子供がいない場合は「取り婿」「取り嫁」といって夫婦ともに養親と養子縁組が行われ同時に結婚式が行われる時もあった。
 また養親のどちらかの血族の甥や姪を養子に迎え、成長させ縁組をさせる方法もとられた。

 破談・離婚
 破談については、結納が納まるまでは解消できたが、結納後は包み金を出していたようである。
 離婚は、現在程には度々行われていたわけではないが、家中心の結婚では女性の人格は軽視され、籍を入れない中に帰されたり、また帰る嫁もいた。この場合嫁は嫁でなく奉公人としてそれまで働いた分の給金が貰えれば良い方でほとんどの場合泣き寝入りであった。
 離婚した後再婚しない人を「戻り後家」といった。しかし、生活が苦しい故ほとんどの人が再婚した。妻に死別した夫は「ヤモメ」といわれたが、その人達の後妻になることが多かった。このような人達を「後人さん」と呼んでいた。

 婚姻の習俗
 縁談が始まると暦を見て日がらの吉凶、縁組の相性などの判断をし、それに頼ることが多かった。夫婦の年齢差については、二つはふたをするからいけないとか、三つ違いは何事も見て暮らすから良い(見ている中に年を取る)、五つ違いはいつも良い、七つ違いは泣く泣くすむ(泣くだけで済む)から良いなどといわれた。
 また一つ違いの姉女房は金のわらじを履いて探しても良い。そういう嫁はお金が貯るといわれた。しかし現実には年齢差についての特別な意識はなかったようだ。
 昔は本町でも夜の遊びとして「夜ばい」があった。これは女の人と合意の上で女の家に行き、明るくなる前には帰った。村外に行く時はその村の大将に酒一升、いりこ一升を顔つなぎに持っていく風習もあった。
 子供ができると、その子供は「ててなし子」「私生子」と呼ばれていた。
 また頭の悪い人、身体の弱い人は働けないから嫁を取らないこともあった。嫁の条件は、よく働き、親を大切にすることであって、貧しい家庭から貰った嫁は辛抱強いからと喜ばれることもあった。

図5-1 通婚圏

図5-1 通婚圏


(例)婿側の目録

(例)婿側の目録


(例)嫁側の目録

(例)嫁側の目録