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中山町誌

一一、 お盆の行事

① 七日盆
  この日は盆の始まりと考えられているが、各地域でいろいろ異なるようである。この日までに墓掃除をしておき、夕方までには、お墓参りに行くことになっている地区もある。お墓には、花しば、菓子、団子等を供える。

② 迎え盆
  一三日 迎え盆。各家で盆棚を作り、夕方早く道路や川端に出て麻木殼で迎え火を焚く。「御先祖様、この明りでおいでなさい」と御霊を迎える。これらの行事はところにより一四日になったり言葉が変わったりするが、仏前に供物を供え線香をあげてお祀りをするのは同じである。なお、仏壇には芭蕉の葉をしいて仏の座とするところも多い。

③ 盆祭り・盆送り
  一四日・一五日は盆祭りである。墓から来られた祖先の霊は、盆の間は仏壇にいると考えられている。各家においては、ご馳走を作って仏前に供え祖先の霊を祀ると共に墓参をする。また、菩提寺の住職が壇家を回り祖先の霊に回向する。近年は遠方に就職することも多くなり、お盆休暇と共に墓参に帰郷する人が増えた。
 一五日は送り盆。夕方には迎える時と同様に送り火を焚き「御先祖様、お帰り下さい」「御先祖様、お送りします」等と唱えながら墓へ送る。
 迎え火・送り火の材料としては、杉の葉・線香・たい松・かじがらの木(こうぞの皮)などを使う。

④ 新盆
  アラ盆(昨年の盆から今年の盆までの新仏様)の家では八月に入ると、月始めから終わりまで精霊棚を作り、そこに新仏を祀って毎日灯籠を灯した。庭先に作った精霊棚には、灯籠竿を立てて、施餓鬼幡が付けられてある。
 アラ盆の家には、親戚や近隣の人が供物を持って、灯籠見舞いに行く。

⑤ 灯籠流し
  一ヶ月灯籠を灯し、最後は「とぼしあげ」で、夕方灯籠流しをする。精霊棚・供物などを持ち大川へ行き道端で焼き大川へ流すのである。これには親戚、知人、ひき合いの人も加わった。地域によりちがいはある。
 最近は環境問題もあり、菩提寺の裏庭でまとめて「とぼしあげ」をするようになった寺もある。

⑥ 施餓鬼
  施餓鬼本来の意味はあるが、主として新盆の供養などを施餓鬼といっている。これには寺により、地区によってそれぞれ異る方式もあるようだが、盛景寺壇家について述べる。
 各家による施餓鬼(前述新盆の項参照)
 堂施餓鬼(組施餓鬼という壇家もある)は、八月一日より八月八日の間に実施される。各地区のお堂に家々より位牌を持ち寄り施餓鬼幡を立て住職の読経により供養する。
 盛景寺の施餓鬼(八月一四日)は、新亡の人の位牌を壇家の人々が寺に持ち寄り供養する。精霊棚に芭蕉の葉を敷き位牌を安置して住職が読経をするのである。その間、地区の代表は山門にて鐘と太鼓をたたき念仏を唱える。終われば、それぞれ塔婆を持ち墓に参り供養をする。

⑦ 藪入り
  正月一六日の藪入りと同じようなものである。しかし「地獄の釜の蓋があく」との意義はもうなくなっている。盆礼も、俗にいう「お中元」なども、現在では盆より前に贈答するのが普通になった。

⑧ 盆飯
  八月一四日 女の子らが川原に集まって石でかまどを築くなどして盆飯を炊いた。「お盆まんま炊かん……」などと言って、各人が米・野菜・鍋・釜(飯ごう)などを持ち寄り炊いたものである。ほほえましくも楽しい行事であったろう。昭和三〇年頃まで続いたようである。
 この行事は、中山町・広田村が県下の北限である。

⑨ 盆踊りについて
  盆踊りの起源については、様々な説があるが、相当古い。現代の盆踊りという名称の行事は室町時代に始まったともいわれている。とにかく男女相混って踊ったものであるから、江戸時代ではいろいろな束縛の少ない地方、田舎で発達したように考えられる。
 本町における盆踊りの発達も詳しいことは知る由もないが、古くから行われ、諸仏寺の興隆と共に自然に流行したものと思われる。
 盆踊りは旧暦七月(八月)になると個別に催されて来た。即ち七日には柚之木の「出のお堂」、二八日には小池の「愛宕さん」一七日には安別当の「峯のお薬師さん」、高岡の「鶴岡天満」、野中の「堂目」などで、他にもある。
 踊りの内容も種々あったようであるが、なかんずく、扇子踊り、手踊り、阿波踊りなどが行われ、特に本町の扇子踊りはその手振り・足振りの軽妙さ、扇子さばきのあざやかさで一段と他を抜いて有名で各所でもてはやされたようである。
 その音頭の二、三を拾ってみると
 扇 子 踊
  扇子投げたがとどいたか知らん  なんでとどかや投げもせず
  御苦労さんだよ太鼓打ちさんは  鳴らぬ太鼓をなれなれと
 手   踊
  踊おどるなら三十まで踊れ  三十すぎたら子が踊る
  音頭だす子がたなから落ちて  たなの下では泣き音頭
 もともと宗教的行事として発達してきた盆踊りも、次第に時代の流れと共に変わり、永い伝統も薄れ、娯楽的な意味が多分に加わってきた。そのため、踊りの内容や形態も、音楽機器の発達にともなって変化してきたのである。
 柚木地区や平村地区をはじめ多くの地区で、扇子踊りが行われ青年が行き来していたが、「新しい文化・音楽・テレビの普及などにともなって姿を消して行ったのですよ」と古老は話す。
 次に現代行われている盆踊りについて少し詳しく述べてみよう。一つは霊を祀る踊りであり、他の一つは娯楽のための踊りである。

⑩ 霊を慰める盆踊り
  霊を慰める盆踊りは昔は多くあったが、現在では二、三の地区になってしまった。
 高岡地区では「モウリョウ踊り」(別名念仏踊り)が残っている。
 一四日、新亡のある家は位牌と灯籠を自分の家からお堂へ持参する。老人や婦人はお堂の中でお念仏を唱え、若い人は輪になり回りながら踊るのである。念仏では鐘を叩き、踊りは太鼓に合わせながら進行していく。
 区長さんの合図で、黒龍観音、お大師さん、新亡、高岡地区の念仏と唄に合わせながら進行していく。最近は踊らず輪になって歌いながら歩くだけになっている。
 また、大矢地区でも同様な盆踊りが行われるが、これは新亡の家の希望により集会所で行われた。地区内の人全員が参加し、接待も行われたようである。昭和五一年頃まで行われたが、それ以降は実施されてない。
 竹之内地区では、終戦頃まで行われ「おせがき踊り」と言っていた。地区内の青年男女が新亡の家に行き、やぐらの下で踊ったもので、簡単な接待を受けた。しかし、昭和二五、六年頃以降はなくなってしまった。
 他にいくつかの地区でも行われていたようである。

 娯楽のための盆踊り
 安別当の盆踊りは、「峰のお薬師さん」の盆踊りとして昔から有名である。
 地域の人は、早くから太鼓の練習をする。広い範囲から参加するので、前日(一六日)当日(一七日)におこもり堂に宿泊する人もある。当日の夜は屋台店もでて、身動きできぬ位の人出となる。

 戦没者慰霊の盆踊り
 昭和三〇年代中央青年団主催で、中山小学校校庭を会場とし始められた。昼は慰霊祭、夜は盆踊りとなっている。盆の一六日のこととて、老人から子供まで出て夜店と共に賑う。
 近年は各地で村おこしの一環として、特色豊かな盆踊りが実施されている。

 念仏講
 念仏講には地域それぞれの特色があろうが、梅原地区では次のようになっている。
 盆の一四日の全体念仏は、寺で住職指導の下に行う。太鼓・念仏鐘を打ち鳴し、数種類の仏様に念仏を唱えた後、年内に死亡した霊に別々に唱えて慰める。
 毎月一六日の夜は隣組みの人が輪番で当番の家に集まり念仏を唱える。近年この回数は減ってきた。
 一月一六日は、「口あけ」と呼び、厄除け大わらじをつくり、近くの四辻に懸ける。

 芋名月
 旧八月一五日の行事。仲秋の名月を楽しむ。縁側に台を出して、月見団子・里芋・ススキ・キキョウなどを供える。終われば供物はみんなで食べる。