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中山町誌

一、 主食

 明治時代の主食は、米・麦・トウモロコシであって、その割合は大体米二割から五割に対して、麦・トウモロコシは、八割から五割程度であった。
 大正時代になると食生活の向上につれて、米五割から七・八割へとふえていき、麦・トウモロコシも五割から二、三割程度に減っていった。

 米
 米は立臼で搗き、七、八分搗き程度にし、麦及びトウモロコシは引割を使うのが普通であった。従来自家で臼鴇き、または水力を利用(水車)して精米していたが、大正六年頃からは電力による精米所ができて非常に便利になった。
 米を食べる時は、盆正月などの紋日、冠婚葬祭の儀礼日、病人、よそ行きの弁当ぐらいに限られていた。
 米が主食となったのは昭和四〇年代ごろからである。
 子供達は白米をちんちまんまといっていた。一年の内で米を食べることは、すべてに勝る珍しいご馳走であったからであろう。
 麦は「まる麦」であった。臼に裸麦を入れ、少量の水を加えてやぐらで搗く、一度乾かして二度搗きするのである。またこれを炊くにも大変であった。丸麦を洗って釜に入れ、長時間炊かないとでき上らず、何回も大杓子でこね回して炊き込んでおき、それに少量のかわきごめを入れて炊きあげるのである。
 大正時代に入りしゃぎむぎ(押麦)が考案されて、米と一度に炊けるようになった。これは炊ける時間も短く、丸麦よりも味が良いので、多くの家庭で使用されるところが増加していった。しかし、しゃぎむぎは丸麦に比べ炊きあげても量が増えないことから、丸麦を使う家もあったようである。

 焼米
 五月の苗代には籾を水に浸してから蒔くのであるが、種籾にした残りの籾を炒って櫓で搗くと香ばしい焼米ができる。そのまま保存食としたり、直接食べたりもした。
 焼米に熱いお茶をかけて、ゴマ塩を少量入れてしばらくすると、酵素の匂いと炒った香ばしさは、食欲をそそる独特なものであった。
 食糧事情の悪い時代の焼米は忘れられない食べ物であったし、現在でも焼米を作りつづけている家も見られる。菓子の少なかった戦前には百姓家では貴重なおやつであった。

 餅
 糯米を水に浸して蒸籠へ入れ、蒸し上がると臼に移して杵で搗きあげた。粉をうった餅取り板の上に出し、家庭そろって丸めて餅をつくった。餅にはとうきび、たかきび、あわ、小きび、蓬などを加えてつくものもあった。あんのないのを「すやもち」という。あんは粒あんと濾あんがあり、黒砂糖あん、塩あんを主に使った。糯米としゃく米(うるち米)を混ぜたものを「お多福餅」といい、これは家に福を呼ぶとの縁起から、祝いごとには必ずつくっている。また、かまぼこ型に押したものを「伸し餅」といった。
 正月餅は、かめに入れた寒の水に浸して永く保存し、水餅として焼き、きな粉にまぶして食べ、よそ行きの弁当にもした。戦時中、学校への弁当は水餅が主であった。食べるときには冷えて固くなっていたが、それでも味はよかった。
 この水餅は六月の田植頃迄保存している家も多く見られた。水餅をつくるため、早朝から深夜まで、一日中餅を搗く家も多く、手に「まめ」ができたほどである。
 現在でも水餅を橋く家は見られるが、食糧事情の好転によって、保存食とする傾向はほとんどない。

 かき餅・あられ
 かき餅・あられも餅同様必ずつくることにしていた。甘味は「たき込み砂糖」を用い、塩入りのものも作った。かき餅あられ用の餅は特に入念に搗き、粘り強い餅として押し固め、「もろぶた」に並べたまま数日かけて乾燥させた。
 かき餅・あられともに赤、黄、青の色餅とした。かき餅は「はがため」ともいい、寒つきでないとできないものである。薄く刻んだはがためを藁で挿んで天井に吊し乾燥する風景がよくみられたが、現在ではほとんど見られなくなった。また、あられは、ひな節句用の豆炒りを作る時にも、干し飯とともに用いられた。

 ぼた餅・団子
 ぼた餅は盆につくり、団子は春の彼岸・盆に仏前用につくるだけであった。

 かしわ餅
 五月五日の節句、夏祭り、田休み、七夕祭り、小じきわ日、うら盆など、夏季の食物としてつくられた。米の粉、もち米の粉に蓬を材料として、中には主に砂糖あんを入れ、せいろで蒸してつくる。山帰来の葉で巻くのが多いが、桜の葉、みょうがの葉、かしわの葉で巻くこともあった。

 うどん・そば
 昔は手打ちでうどんを作り、濃いだし汁につけて食べた。だし汁は、大豆、昆布、いり子、しいたけを煮出したのを使い、薬味には、ねぎ、しょうが、にら、ごま、からし粉、ゆずの皮、大根おろしなどが使われた。たいていの家には樫のうどん棒があり、餅取板の上で打った。
 そばは、年越しそばのほか、湯かきそばといって、そば粉を茶わんの中に入れ熱湯をかけてよくこねまわし、これにだし汁をかけて食べるものもあった。そばは備荒食として保存し、予備以外は粉として、カス(そばがら)は枕に詰めて利用された。

 甘薯・馬鈴薯
 甘薯(さっまいも)は「りゅうきいも」とも呼ばれる。明治二〇年頃に「源氏いも」「平家いも」と呼ぶ紅白の甘薯が作られるようになった。
 さつまいもは日照りに強く備荒食品としても重宝された。蒸して食べたり、それを干して「ひがしやま」にしたり、粉にして「かんころ餅」にしたり、糯米とついて「いも餅」として食べた。第二次世界大戦中は「いも雑炊」として主食の代用を果したものである。
 馬鈴薯(じゃがいも)も主食を食い延ばす代用品として、また副食品として嗜好にもよく合った作物で、欠かせない食品の一つである。

 雑穀
 黍(こきび)を糯白し橘米と混ぜて黍餅をつくったり、黍雑炊をつくったりした。ともに風味があって好まれた。
 稗は黍同様、特別な方法で食用に供された。収穫された稗は、そのままでは精白ができないので、蒸籠で蒸した。すると先の方の口が開くので、それを乾かしてから臼で搗くと精白でき炊けるようになる。稗は変質しにくいので長く保存でき「備荒食」として貯えたそうである。

 大豆
 大豆は畑の肉といわれ、白・黒・青などの種類があった。白は豆腐・煮豆・味噌・醤油の材料として、黒は煮豆・豆飯・炒豆・餅の材料として、青は黄粉として、黄粉むすびに使ったり、温かい飯にふりかけて食べた。
 豆腐は冠婚葬祭をはじめ物事があると必ず作ったものである。当時各家には豆腐作りの用具があったが、今日では業者や店頭で簡単に買い求められるようになり、これらの用具はほとんど見かけなくなった。また、当時豆腐の作り方は次のようであった。
 大豆を一昼夜水に浸してやわらかく炊き、それを碾臼で水を加えながら「ご汁」を作った。これを大釜で煮て麻袋でこし、こされた液にニガリ(苦汁)を入れて凝固させた。次に豆腐箱に麻布きんを敷き、凝固したご汁を入れて蓋をして、重石をしておくと、水分が切れて豆腐ができあがるのである。

 小豆
 小豆には大納言・中納言などがあった。赤飯や餅のあんにしたり、牡丹餅(おはぎ)のころもとしてつけたり、小豆飯・小豆粥・自家製羊羹・饅頭など、どちらかといえば贅沢品として使われた。

 唐きび
 唐きびは畑で多く栽培され、粒唐きびを碾臼で小粒にひき割ったものの中へ、米や麦を混ぜて飯や雑炊にして食べた。唐きびの「けんど下」になった分を「はな粉」といって、これを使って「はな粉雑炊」を作って食べた。
 焼唐きびもよく食べたが、今日のような味のよいものではなかった。
 唐きびの粒落しとしては、庭にむしろを敷いて棒打ちするか、かり竿で叩いて落した。唐きびを乾かして炒り、臼でひき「はったい粉」として常時台所に置きこれをはねて食べた。子供のおやつもこの「はったい粉」が主であった。はったい粉のことを「こんこ」ともいい、こんこは各家の臼で碾いたが、うすの目切りが悪いと、粗い紛になるので、気をつけてうすの目立てをした。雨の日など農家の前を通ると、どこかで必ず「こんこ」を碾く音が聞こえたそうである。

 その他
 不作年には、藤かずらの根、片栗(えべる)の球根、わらび根などから、でんぷんを採り、これをかわきにしたり、主食にしたりした。片栗粉は病人食として重用された。昔は、飢饉に備える食糧とした。